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ヴァンセンヌ城

ヴァンセンヌ城への行き方
パリの南東に位置し、ヴァンセンヌの森のちょうど入り口に当たります。パリ、メトロ1番線の東のターミナル、Chateau de Vincennes(シャトー ドゥ ヴァンセンヌ)。城内見学7.50ユーロ。

ヴァンセンヌ城の歴史
ヴァンセンヌ城は14世紀から17世紀にわたるフランス王の城。

他の多くの有名な城と同じく、もとは狩猟用に使うロッジとして1150年ルイ7世のために建てられました。13世紀にはフィリップ・オ ウギュストとルイ9世がさらに実質的な荘園へと築き上げていきます。またルイ9世はここヴァンセンヌから十字軍遠征に向かい、二度と戻ってこなかったとされます。そしてさらに、この土地を強化するために、天守閣がフィリップ6世によって足され、その塔は52mで中世で一番高くて頑丈な構造でした。天守 閣工事は1337年に開始。そして、天守閣を囲む長方形の城壁がヴァロワ一族によって約2世代後にようやく完成されました(1410)。

またヴァンセンヌ城はたんなる砦としてだけでなく、フィリップ3世(1274)、フィリップ4世(1322)のようにこのお城で結婚式を 挙げた王もいました。そして14世紀の王たちは皆ここヴァンセンヌ城で生まれています。ルイ10世 (1316)、フィリップ5世 (1322) 、シャルル4世(1328)。

17世紀には、ヴェルサイユ宮殿が注目を集めはじめ、ヴァンセンヌ城は多くの重要人物などが収容される牢獄の役割も果たして行きます。

18世紀この城は放棄されますが、その後まずはヴァンセンヌの陶器製造の地として(セーブル陶器博物館参考)、次に公式の収容所として、1796年には軍事品製造所として機能していきます。そして現在はthe French Armed Servicesの歴史的セクションとしての役割を果たしています。

また19世紀に英国様式の公園が作られます。そして1860年にナポレオン3世がヴァンセンヌの森と城を公共の公園として開放することになります。

ヴァンセンヌ城は1940年ドイツ軍侵略に対し、フランスが軍の本部を置いた場所でもあります。

Chateau de Vincennes ヴァンセンヌ城
12年の修復期間を終えて今年(2007年)オープンしたヴァンセンヌ城。6年前に訪れたときはまだ当然のことながら工事中で、いつかもう一度訪れたいなと思っていました。


高くそびえ立つ塔の中は意外に狭く、昔の様子が伺えます。


塔の地上階は倉庫、1階(橋のつながっている階)が出迎えの階、2階が王のプライベートの間、そして最上階には兵士たちが集まっていたそうです。


右の写真はクリックすると拡大します。


本丸を囲む塔の回廊。右の階段状にデザインされている部分は王の間。他の部分と違って、わざわざ手が加えてあります。


部屋の中は一本の柱を中心に、これが全階で一直線をなしています。


天井に使われている木材はかなり古く、時代を感じます。800年前に作られたというオリジナルです。


左は暖炉。右の写真は見にくいですが、トイレだったそうです。


実際はいろんな装飾が壁や柱に施されていたということです。

Ground Floor
中世時代には、この地上階は一階の小さな階段を使ってのみアクセスが可能でした。中庭に通じるドアのための開き口は18世紀に作られたものです。それ故に当時はこの地上階を台所として使うことはとても困難であり、代わりに貯蔵庫や召使達の部屋として使われました。 またこの階には、井戸や暖炉の跡が残っています。

また、上の階同様、この部屋も一本の柱を中心とした部屋となる予定でした。柱を隠してしまっている内側の壁は中世後期に作られたものです。19世紀に作られた窓の柵や独房の扉は、この部屋がかつて牢獄として使用されていたことを物語っています。1784年、この城の本丸は牢獄としての使用に終止符を打ち、囚人達はみなバスティーユに移されました。1785年から1790年の間は、ヴァンセンヌ村にパンを供給していたパン屋と東パリ地区が この地上階と本丸の中庭を占拠しました。

The Marquis de Sade’s cell
快楽主義哲学者、無神論者、スキャンダラスで挑発的な作家、Donatien Alphonse Francois de Sadeは好色な作品内容で悪名高かった。彼は2度、このヴァンセンヌに収容されている。一回目は15日間、売春宿での乱暴な行為に対して。二回目は、 1777年、売春婦毒殺で終身刑を宣告されました。ヴァンセンヌで7年を過ごした後、1784年にバスティーユへ移され、1790年自由を得ることになり ます。この本丸に収容されている間、彼の妻とは活発に連絡を取り合っていました。

ヴァンセンヌの牢獄
中世の頃から、フランスの王達は司法高官としての役割をも果たすために、それぞれの居住区に囚人を投獄する場所を持っていました。15世紀後半、ルイ11 世はこの本丸を囚人、時に重大な罪を犯した者などを収容するための牢獄として使い始めます。16世紀からは、公式にこの本丸が牢獄として機能していきます。その対象となったのは、プロテスタントなどの宗教異端者や政治敵対者などでした。

Pierre Ernst I of Mansfeld(1517~1604) は、the Emperor Charles Quintとルクセンブルグ総督の任務に服した戦争捕虜としてヴァンセンヌに投獄されました。しかし彼は、この本丸内で、料理などの家事をしたり、野うさ ぎやオオムなどのペットを飼うことを許されていました。そして身代金が出された後すぐに解放されることになります。

17世紀からは、フーケ(1615~1682)のように囚人は独房に入れられるようになります。1661年、彼はルイ14世によって投 獄されました(詳しくはヴォルヴィコント城参考)。

18世紀後半からは、バスティーユとともに王宮の牢獄としてシンボル化していきます。ある囚人達は裁判もなくここに連れてこられました。1749年のDiderotは、彼の作品が破壊分子的だとされ牢獄されてしまいました。

19世紀、1830年と1848年の改革後、免職となった高官たちがヴァンセンヌに収容されました。そして世界第2次世界大戦の終わりまで牢獄として使用されていきいます。

彫刻装飾
彫刻は窓の基盤に集中して用いられており、音楽を奏でる天使やファンタジー溢れる姿や予言者を描いています。これらの彫刻は修復時にコピーされたものです が、オリジナルのいくつかは中に展示してあります。音楽を奏でる天使というのは中世ヨーロッパの彫刻、ステンドグラス、絵画などによく見られ、14世紀中ごろから天のシンボルとして使われるようになりました。


音楽を奏でる天使たち

ベル塔と時計
1369年に作られたベル塔は、フランスで最初の公共時計。ここに現在たっている塔は2000年に復元されたもの。オリジナルのベルはサント・シャペルにある(サント・シャペルの ぺージも参考に)。シャルル5世によってパリ居住区に取り付けられた時計のうち、唯一現存する時計。王の書斎の上に設置され、また本丸にある王の寝室と同 じ階にあり毎日規則正しい時間を告げていた。


門の向こうに広がるのがヴァンセンヌの森(写真右)。


塔からの眺めも美しい(天気がいいともっとよかったんですが)。

参考:ウィキペディア English
ヴァンセンヌ城内の説明記事より
訳 aki

パリのメトロですぐに行けてしまうという便利さ。見学の後ヴァンセヌの森を散歩しながら一日を過ごすのもいいですね。パリはショッピングもいいですが、やっぱり歴史もおもしろいですよね。日本史と比べながら見学したりするとさらにおもしろい。ここでどんな人がどんな事を思っていたんだろ うと考えるとぞくぞくしてしまう。

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