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モンフォール ラモリ

Montfort-l’Amaury モンフォール ラモリの位置:

イル・ド・フランスにあるYvelines県の村。パリの南西部に位置し、モンパルナス駅から毎時一本電車が出ています。Dreux行きの電車でMontfort-L’Amaury Mere駅下車。そこから村まで一本道でまっすぐ。私の場合は友達が住んでいるので迎えに来てもらえましたが、歩いてでも行けなくはないと(2~3km)。Rambouillet Forestが隣接しハイキングにも人気。

モンフォール ラモリの歴史:

町の名前は、The Comtes de Montfort(モンフォール伯爵)初代王家、Amaury I de Montfort(モンフォール アモリ1世)から来ています。この場所は、9世紀の初めからモンフォール家の要塞として存在し、Amaury I(アモリ1世)が城壁を築きました。さらにKing Robert IIが996年にモンフォールの丘に城を築きましたが、100年戦争の間イギリスによって破壊されてしまいます。モンフォール伯爵家は1294年にArthur of Brittany(ブリタニ アーサー)とYolande de Dreux-Montfort(ドゥリュ-モンフォールヨランド)との結婚によりブリタニ公国(フランス語名ブルターニュ公国)とつながりを持ちますが、ブルターニュがフランソワ1世(1494~1547)の治世にフランスの一部になった際、王位はフランスに戻されます。


村の丘の頂上に立つ城砦跡。 (こちらの写真は、天気が悪くうまく写真が撮れなかったので、ウィキペディアより拝借)

観光スポット:

Eglise Sait-Pierre

11世紀の中頃に教会の建築が始まり、15世紀の終わりまで存続します。 その後、1491年、la reine Anne de Bretagne(ブルターニュ アンヌ女王)が新しい教会の建設を計画し、もともとゴシック様式だったものが、ルネッサンス様式に取って代わることになります。教会の前は広場になっており、お店が立ち並びます。小さいながら観光客がたくさん訪れていました。

教会の周辺をぶらぶらと散策してみましょう。なかなかの雰囲気があっていいですよ。

教会正面を左に曲がって通りに入ると、ツーリストオフィスがあり、そこを通り過ぎると正面に墓地が現れます。修道院のような回廊が走っていてますが周りはお墓だらけ。この墓地の上から教会を眺めることができます。

Maurice Ravel(モーリス ラヴェル1875~1937)が晩年を過ごした家:

墓地を横切って教会と反対側に出ると、音楽家として有名なモーリス ラヴェル(バレエ音楽『ボレロ』の作曲者)が住んでいた家が見えてきます。音楽には疎く、よく知らなかったのですが『ボレロ』と言えばとても有名。また調べたところ『展覧会の絵』をムソルグスキーのピアノ曲から管弦楽曲に編曲したのもモーリス ラヴェル。どちらも素晴らしい作品。一度聞いたら頭から離れませんね。いつもこれらの曲を聴くたび、すごくかっこいい!なんて思っていました。そんな偉大な人物がこんな小さな村に住んでいたなんて驚きです。

Les Journees Ravel Monnfort l’Amaury

そしてその手前にある階段小道を降りて行きます。

さあ、ここからハイキングへ。

夏のハイキングもいいですが、冬の散歩もなかなかすがすがしくて気持ちがいいですよ(道はちょっと悪いですが)。空気も水も透き通っています。

冬は日が沈むのが早く 、帰りの距離を計算して歩かないといけませんね。ここからForet Domaniale de Rambouillet(ランブイエの森)です。

しばらくすると湖が見えてきます。この日は湖全体が凍っていました。

最後にパノラマ!

パリから電車で40分ほどの場所に位置するので、いつでも気軽に行けそうです。今度は夏に訪れてみたいと思っています。

モンフォールラモリ オフィシャルサイト

アルベール・カーン博物館/庭園

天気のよい9月の第1日曜日。今日は美術館や博物館が無料の日!お昼からブローニュにあるアルベール・カーン庭園へ足を運ぶことに。

アルベール・カーン(Albert Kahn 1860~1940)という人物は南アフリカの金鉱とダイヤモンド鉱への投資で成功し、自らの銀行を設立。その後「地球映像資料館」を設立し、世界中50カ国に写真家を派遣し多くのカラー写真やフィルムの撮影をしました。しかしながら1929年に起きた世界恐慌で破産してしまい、映像資料館は買い取られ、現在このアルベール・カーン博物館でそれらの貴重な写真が見られるそうです(私が訪れた日は改装中のようでした)。また彼は日本との関係もあります。銀行を設立した当初、急激に発展を進める日本に投資をし成功を収めました。明治時代の渋沢栄一と交友もあったそうです。

アルベール・カーン庭園
そんな日本との関係もあり、庭園には日本庭園が設けられています。ブローニュの森南西に位置する一角にこんな日本の景色が見られるとはちょっとビックリ。

まずは入り口から右手に向かって歩き始めました。するといきなり日本の伝統的家屋が立ち並び、日本人にとってはなつかしい風景が目に飛び込んできます。

Village Japonais(日本の村)

建物は全て日本から送られてきたものだそうです。屋根の修復が必要らしく2011年から工事が始まるようです。

砂まできちんとアレンジされているのには驚きました。これがきっと日本のイメージなんでしょうね。

Jardin Anglais(イギリス庭園)

大きな池が広がり、雰囲気がまったく違います。

Foret(森)

イギリス庭園を抜けるとそこからは森が広がります。小道があちこちと連なり、どんどん歩いて行きます。結構広いですよ。

都会にいることを忘れそうな空間です。

Jardin Francais(フランス庭園)

綺麗に区画分けされたフランス庭園。日本庭園とは対照的です。バラ(ちょっとシーズンが遅かったかな9月だと)や果物がたくさんなっていました。

温室もありましたが残念ながらこの日は閉まっていました。また次回に。

Jardin Japonais(日本庭園)

そして最後にたどり着いたのが日本庭園(このお隣が出発点だったVillage Japonaisです)。

池には錦鯉がたくさん泳いでいました。こども達がえさをやって喜んでいます。あ、おじさんも喜んでいました。

お昼過ぎすぐに行ったので人もまばらでしたが、だんだん人も時間がたつに連れて増えてきました。特に第一日曜日だったからかな。お散歩がてらに出かけてみてはいかがでしょうか。パリではなくパリのお隣ブローニュ市の中にある日本発見です。

アルベール・カーン博物館/庭園への行き方

Albert-Kahn, Musée et Jardins
Service des Publics
10-14, rue du Port
92100 Boulogne

メトロ10番線Boulogne-Pont de Saint Cloud(10番線の終点です) 庭園はメトロから歩いてすぐ。
バス72番(Hotel de Ville やLovreから)、52番(Operaから) 同じくBoulogne-Pont de Saint Cloudで止まります。

アルベール・カーン博物館/庭園 オフィシャルサイト

入場料金 1,5ユーロ 月曜休館

フォンテーヌブロー宮殿

パリの南東郊外55kmに位置する町Fontainebleauフォンテーヌブロー。そしてその町に構えるのがフォンテーヌブロー宮殿。フランスでも最も大きな宮殿の一つとされ、1981年にユネスコ世界遺産にも登録されています。今日ある宮殿の姿は多くのフランス君主による築城の成果であり、その始まりは16世紀初頭のフランソワ1世にさかのぼります。

パリからはGare de Lyon〈リヨン駅)から電車が出ており約45分ほどでFontainebleau‐Avon駅へ、そしてそこからはフォンテーヌブロー宮殿行きバスで15分。詳しくはページ下のフォーンテーヌブロー市オフィシャルサイトにて詳細+地図が載っています。

フォンテーヌブロー宮殿の歴史

1169年: フォンテーヌ・ベル・オー(Fontaine Belle Eau)あるいはフォンテーヌ・ブロー(Fontaine Belleau)と名前が残されている。

12世紀後半: この敷地にあった古い城はすでにルイ7世(1120‐1180)よって利用されており、カンタベリ大主教であったトマス・ベケット(Thomas Becket)が彼のために礼拝堂を捧げている。

13世紀: またこのフォンテーヌブロー城はフィリップ2世(フィリップオーギュスト1165 ‐1223)やルイ9世(1214‐1270)のお気に入りの城でもあった。

14世: フィリップ4世〈端麗王1268‐1314)がフォーンテーヌブロー城にて誕生。逝去もこの城にて。

15世紀~16世紀: フランソワ1世(1494‐1547)により現在のような建物へと造りかえられていきます。フランソワ1世のもと、Gilles le Bretonという建築家が南門Porte Doree(黄金の門)を含むCour Ovale(楕円宮廷)のほとんどを建築。また王は建築家のSebastiano Serlioをフランスに招き、Leonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ)も呼び寄せている。Rosso Fiorentinoによるフレスコでフランソワ1世のギャラリーは飾られ、これがフランスで建てられた一番最初の装飾ギャラリーとなった。

大まかに言うと、このフォンテーヌブローでルネッサンスがフランスへと流れ込んできます。

16世紀前半~中期: アンリ2世(1519 ‐1559)の治世において、Salle des Fetes(祝祭の広間)がイタリアのマニエリスム画家Francesco PrimaticcioとNiccolo dell’Abbatteによって装飾されます。「フォンテーヌブローのニンフ〈妖精)」は、宮殿装飾のために作られましたが、現在はルーブルにあるそうです。さらにアンリ2世とCatherine de Medici(カトリーヌ・ド・メディシス)により拡張建築がなされます。アンリ3世(1551‐1589)フォンテーヌ城にて誕生。

16世紀後半~17世紀前半: このフランソワ1世からアンリ2世までに築かれてきた城にアンリ4世(1553‐1610)は中庭を付け加え、名をCour des Princes(王の中庭)としました。その庭にはGalerie de Diane de Poitiers(ディアーヌ・ド・ポワチエのギャラリー)や Galerie des Cerfs(雄鹿のギャラリー)が設置され図書室として利用され、さらに木々で覆われた庭園に1200mの水路を設け、松やエルムの木、果樹などを植えるように命令します。ルイ13世(1601‐1643)フォンテーヌ城にて誕生。

1685年: ルイ14世により「フォンテーヌブローの勅令」発令。これによりナントの勅令が破棄されることになります。ナントの勅令とは、1598年アンリ4世によるもので、プロテスタント〈ユグノー)などに対してカトリックと同じ権利を与えるという勅令。

18世紀後半: 城の不運が始まる。フランス革命期に多くの調度品が売りに出される。国民のための資金を調達する目的と、ブルボン家が二度と贅沢な生活に戻れないようにするためである。しかしながら、10年も経たないうちにナポレオン・ボナパルトがこの城を彼の力のシンボルとして利用するようになります。荷馬車が通れるよう石畳のエントランスに作り変えさせたりこの城の修正を図り、ナポレオンによって現在我々が目にする宮殿が完成されます。

1814年: フォンテーヌブロー宮殿にてナポレオンが親衛隊に別れの挨拶をし亡命する。

こうして見てみるとさまざまな王たちがここフォンテーヌブロー宮殿で過ごしてきた様子が分かります。では、ここから中の様子を。


まず門をくぐり敷地内に入るとお城までの石畳の道が続きます。ここがナポレオンが近衛兵と別れを告げた「別離の中庭」。ナポレオンはエルバ島へ流されます。


横を見ても上を見ても隙間のないくらいの装飾です。こちらは「皿の間」と呼ばれ皿絵で飾られています。一枚一枚よーく見てみましょう。セーブル陶器博物館でも同じものを見ました。


扉の向こうに見える奥行きに圧倒されます。


フランソワ1世の回廊」。壁にはフランソワ1世の紋章サラマンダーとイニシャルFの文字が見えます。サラマンダーとは、《苦難に負けずに貫き通される信仰や熱情にとらわれない貞節、善なる火を燃え上がらせ悪なる火を消し去る正義を表す》とされています。


そしてこちら、「フランソワ1世の回廊」にあった絵。人が集まって話していたのを横で聞いていたところ、この白い像は力と知恵の象徴で足元のコウノトリが国王の母への敬意を表しているんだとか。一つ一つちゃんと意味があるんですね。フランソワ1世がイタリアから呼び寄せた画家ロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino)のフレスコ画だそうです。


皇后の寝室」〈左と中央)。歴代の王妃や皇后の寝室として使われてきたそうです。


ルイ13世の間」(右)。ルイ13世がフォンテーヌ宮で誕生。父アンリ4世がその誕生を祝って豪華に改装したんだそうです。テーブルの上にはセーブル焼きの壺、そしてそのテーブルにも工夫がしてあり座る人ごとに各引き出しが付いています。


次から次へと豪華な部屋が現れます。左写真は「マリーアントワネットの小部屋」。フォーンテーヌブローはもともと王たちの狩猟を楽しむ場所として城が建てられました。ルイ16世ももちろん毎年ここへ猟をするためにやってきたことでしょう。しかしこの時代には城の老朽化が進み、王の間が拡張され、王妃の小部屋が改装されることになりました。改装後はマリーアントワネット好みの装飾に変えられ、部屋にある家具も彼女用にデザインされたものです。「皇后の寝室」にあるベッドもマリーアントワネットのために作られたものです。右写真は「王の控え室」。


ナポレオン王座の間」(左写真)。ナポレオンがここに座っていたんですねえ。両端のポールの上にナポレオンのイニシャルNが見えます。そして中央写真は「ナポレオンの小部屋」と呼ばれ、この机でいろんな案を練っていたんでしょうね。机には仕掛けがあり一瞬で書類が隠せるようになっているそうです。ナポレオンはあまり寝ない人だったようで後ろに簡易ベッドが備え付けてあります。右写真はナポレオンが読んだであろう本が収められている「ディアナの回廊」。


そしてこちらお風呂(左)。ナポレオンはお風呂好きだったとか。「ナポレオンの寝室」〈中央と右)。こちらも落ち着いた緑色で統一されています。ここにおいてある椅子にも工夫がしてあります。暖炉にあたる側は手掛が低くなっており、もう片方は高くなっています。よく温まれるように工夫してあるんですね。


会議の部屋」(左)。そして赤で統一された「退位の間」(右)はナポレオンが退位するときに書類にサインをした部屋だそうです。


そして途中みつけたおもしろい一品。中央は秒針と分針の付いた普通の時計なのですが、その周りに曜日だの月名だの、うるう年だの、太陽、月の位置だの星座だのといろんなものがくっついています!


トリニテ礼拝堂」。左は城に入ってすぐのところで、礼拝堂を見下ろすような感じ。右は下から見上げた様子です。元は聖王ルイが建てた聖堂を三位一体修道会(トリニテ修道会)が引き継ぎました。ここで国王と王妃が毎日ミサに参加していたんですね。


さあ、外に出てちょっと休憩。たくさんの部屋を見終わって、主人と一緒に歴史話。ヴェルサイユ宮殿もそうですがこれだけの財力が一部の選ばれた人間に集中するなんてものすごいことですよね。そんな時代があったからフランス革命につながるのでしょうが。歴代王が居住した宮殿ということで、なんとなく一度にいろんな時代を駆け回ったような一日でした。

さあ またバスと電車でパリに戻ります。ちょっと大変だけれども時間があればぜひ一度。

関連サイト
フォンテーヌブロー市オフィシャルサイト

フォンテーヌ宮殿オフィシャルサイト

以上参考ウィキペディア、宮殿内ガイドより

セーヴル陶器博物館

パリの南西郊外セーヴルにあるMusee National de Ceramique(陶器博物館)。

メトロ9番線のターミナルPont de Sevresを出てセーヌを越えるとその建物が見えてきます。

入り口に大きな陶器の長細い壺が立っていて、中へ入る前にそこで立ち止まってしまいます。入ると受付と売店スペースがあり、入場料金は4.5ユーロ。

まずは一階部分。いろんな国の古い時代の陶器が並んでいて、描かれている絵など少しプリミティヴなものもあり興味深い。フランスはもちろん、スペイン、イタリア、オランダ、オアーストリア、中国、イスラムなどの作品が展示。

そして2階へ上がると、まず巨大な陶器の作品に驚かされます。広い空間にそびえるような大きさ。近寄って倒してしまたっらどうしようと心配になってしまったり。そして次の部屋には国別のコレクションが展示してあり、例えば、フランスの中でも、プロヴァンス焼きなど地方別になっているのがおもしろい。プロヴァンス出身の主人が「プロヴァンスは他の地域と違ってハチやチョウがたくさん描かれているね」と。確かに。プロヴァンス陶器に描かれているくらいのかわいらしい虫ならいいのですが、中には結構リアルな虫が描かれているお皿があって、この上に料理?と・・・・(どの国か忘れてしまいましたが)。もちろん高級な銀食器などのコレクションなどもあり、どれもこれも見ていて楽しい。それから日本からの陶器作品も展示されていましたよ。日本の作品は飾ると言うより癒すというか、見ているとふーっと吸い込まれそうな作品が多い(表現が抽象的ですみません)。主人も家にあったらいいなあと思うのは日本の作品だと。

思っていたよりも広いスペースで作品も多く結構楽しめました。

さて、このセーブル陶器博物館の歴史ですが、結構古い(当然ですが)。

まず、ルイ15世の統治時代に王の愛妾であったMadame de Pompadourの影響を受け、1740年に陶器アトリエがヴァンセンヌに設立され、さらに1756年このアトリエがセーヴル(Madame de PompadourのBellevue宮殿近く)に移され1759年に王立窯となります。

博物館の創立はAlexandre Brongniart(1770~1847)という人物と大きく関係があり、彼はGeroges Cuvierと協力してパリの周辺地域の地質学の調査を行なった地質学者であり鉱物学者、あるいは科学者、動物学者という紹介もあります。彼の父は建築家のTheodore Brongniart、また彼の息子Adolphe Theodore Brongniartは植物学者でもありました。

少し話がずれますが、父親のTheodore Brongniartは1804年にナポレオン・ボナパルトにペール・ラシェーズ墓地の設計を任され、さらに1807年にはパリ証券取引所のデザインも任されています。

Alexandre Brongniartは、パリで生まれ、鉱物学校の教師をしていたが、1800年、当時内務大臣であったLucien Bonaparteによってセーヴル陶器工場のディレクターに任命される。セラミックの化学と鉱物学エンジニアのつながりがまさに彼にとって最高のポジションへと導いたのです。彼のすばらしい能力のおかげで彼は政権が変わる中、47年間セーヴルを運営管理しました。

また爬虫類の新しいクラス分けを紹介したり、鉱物学や陶器芸術の論文なども書いています。

Brongniartはセーブル陶器工場のディレクターでありまたセーブル陶器国立博物館の創設でもあります。1823年には、Royal Swedish Academy of Scienceスウェーデン王立科学アカデミーの外国人メンバーに選ばれています。

そして、1876年第3帝政時代にはこの陶器工場と博物館が政府によってサンクルー公園の一角に移されます。現在もこの博物館の裏のアトリエで陶器が作られており、ここで作られたものをセーブル焼きと言います。売店でお土産用に売られていますがかなりのお値段ですので私は見て楽しむだけ・・・。

Musee National de Ceramique オフィシャルサイトはこちら

この博物館の右となりには広大なサン・クルー公園が広がっています。時間のあるときにゆっくり足を運んではどうでしょうか。観光サン・クルー公園のページも参考に。

以上ウィキペデアと博物館パンフレットより訳/要約

ヴェルサイユでハイキング

ヴェルサイユと言えばヴェルサイユ宮殿。しかし!その宮殿の周りには自然がたくさん存在し、ハイキングコースもたくさんあるんです。

私たちが選んだコースはForet Domaniale de Versailles。ヴェルサイユの駅から宮殿へ向かう人々とは反対に方角的には南へと歩いて行きます。地図上だと線路を超えD91号線を目指します。するとハイキングコースの入り口が見えてきます。

正午12時ハイキングスタート。ここからRoute des Mulets、Route des Chataignirrs、Route du Grand Boitとハイキングの道が続き、このコースの右手には線路、左手にはN286が走っています。ひっそりとしていて、人もまったくいませんでしたが、自然を楽しむにはそれが一番。サイクリングをする人に数回出くわしたくらいです。でも途中電車や車の騒音が聞こえてくる箇所が数箇所。


静かな森の中。花や草や木を観察しながら歩いて行きます。途中森の中でカサカサと動物の歩く音が・・・。


鳥の声もどこからともなく聞こえてきます。いる証拠は見つけたのですが・・・(左写真)。


地面にカブトムシが!(右写真)

2時間くらいでしょうか。するとN286号線にぶつかり、道路を渡って反対側のコースへと移動です。

ここからはRoute Forestiere de la Fontaine Blancheに沿って歩いて行きます。こちらのコースは結構人が歩いていました。パーキングが何箇所かあるようでアクセスがしやすいようです。


さて、再スタートしてからまだ数分も歩かないうちに視界にサッと何か動くものが。「しっぽが見えた!」と主人に指をさして知らせると、そこにはなんとリスが!!!生まれてはじめてみるしまのあるリス。めちゃくちゃかわいいですよ。


おなかがすいたなあと時計を見るとなんと3時。ちょうど湖を背にピクニックできる広場に到着。こんな思いっきり西洋の森で、おはしでご飯と魚をたべました。弁当です・・・。主人はサンドイッチじゃなくて大喜びでしたが、そばを通った人たち不思議だっただろうな・・・。そして食事中にものすごいきれいな鳥がテーブルの下に飛んできました。きっとパンくずをもらえると思ったのでしょう。でも、パンがなかった・・・。代わりにオムレツを投げってやったら拾って飛んで行きました。鳥に料理した卵をあげてよかったのだろうか・・・。


このコースには湖が3つ:Etang du Moulin a Renar、 Etang du Vol d’Or、 Etang de la Geneste。Etangエタンだから池? でも、ものすごい大きいので一つ一つぐるっと回っていられません。


歩いても歩いても湖いや池。途中かもの親子に遭遇。足もかなり疲れてきましたが、何が現れるか分からないのでドキドキしながら前へ進んでいきます。


そう、いつ何が現れるか分からない!!! ハイキングも後半で疲れで会話も途絶えようとしていたその瞬間、野うさぎです! しずかーに近づいてカメラを構えます。超感動。

パリから30分ほどの場所で、すぐそばにはヴェルサイユ宮殿。そんな場所にこんな自然が。私たちは結局7時間のハイキングでしたが、部分部分に区切って歩いても充分楽しめます。パーキングもあるので車があればさらに近くまでアクセスができると思います。結構森の中に入るといろんなコースが交差しているので地図でしっかり確認して行かれることをお勧めします。


赤い線が私たちの通ったコースで、地図中央部分は軍の管轄地帯になっているようです。その周りをぐるっと囲むような形で歩いて行きます。地図の上のほうがヴェルサイユ宮殿です。