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レ・ボー・ドゥ・プロヴァンス(プロヴァンス)

レ・ボ-・ド・プロヴァンスの歴史


ここに最初に人類が姿を見せたのが紀元前6,000年ごろ。さらにこの城塞が歴史上に現れるのは10世紀になります。レ・ボー家最初のメンバーとして知られているのがPons le Jeune ポン ル ジュヌ。およそ973年から981年頃の文書にその名前が残されています。また最後のメンバー、Alixアリックスは1462年にこの城にて亡くなりました。この城に関する歴史はとても長く、だいたいこの10世紀から15世紀の間に多くの事件が起こります。 戦闘、反乱、反逆、宗教戦争など。16世紀にはいるとレ・ボーは繁栄のときを迎えます。多くの建築における発展が見られるのもこの頃です。城の中に新しい部屋の建設や多くの私的な邸宅などが築かれます。残念ながらこの時代の装飾品などはほとんど残されていません。

1632年、この城から逃げ出した反逆者たちが引き起こしたトラブルによってこの城は取り壊されてしまいます。さらには、この自発的な城の取り壊しから現在ある建物の状況がよくわかります。どことなく寂しく廃れてしまったこの城を見ながら、過去の生活様子を思 い浮かべてみるのもいいのではないでしょうか。


レ・ボーのみどころ

まず大自然の中にふと姿を現す城塞に向かって丘を登っていきます。このあたりの景色はちょうどアルプスの始まりで alpilles アルピーユと呼ばれる小さな高台がたくさん見られます。マルセイユの北西に位置し、はるか地中海までプロヴァンスを一望できます。周りは一面緑に囲まれ壮 大なパノラマ。ただし、アルプスから強風 mistral ミストラルが吹き降ろしてくるので要注意。丘の頂上では、立っていることも難しいほどの強い風です。


丘から見下ろしたパノラマ風景。
クリックすると写真が拡大します。

さて丘の途中で車を降りるとそこからは歩いて登ります。お土産やさんなどが並び小さな集落ができているのでそれらをみながら入場口へ向かうといいでしょう。城に着いたらまず入り口を入り、館内にある絵や説明を見ながらレ・ボーの長い歴史について勉強してみましょう。一通り館内を回ったら別の出口から外へ出ます。そこからは丘の上に立つ遺跡などを見学して回ります。昔使われていた巨大カタパルトやユニークな兵 器が漠然と展示してありタイムスリップしたかのように不思議な感覚に陥ります。さらに進んでいくと城の建物にたどり着きます。少しむき出しになったお城の 中にはたくさんの部屋が築かれており、こんな場所に本当に人が住んでいたんだと改めて驚かされます。石作りでかなり高いところに築かれているので結構恐怖感を感じます。さらにその城の頂上へと続く階段が所狭しと作られていて、強風の中登っていくのはさらに恐怖感が・・・。見晴らしは最高なのですがあまり長くはいられませんでした。ぜひ体験してみてください。

lesbaux view


左の写真はクリックで拡大します。

lesbaux view lesbaux view


こんな場所に本当に人が住んでいたんだと思うと感動します。
上の写真はクリックで拡大します。

またこのレ・ボー周辺には隠れたグルメなレストランや感じのよいホテルなどがあり、静かな場所ですが人気の高い地域でもあります。ちなみに私のお勧めは La Petite France ラ・プティト・フランス というレストランです。小さな村の中にひっそりとたたずむ雰囲気のとてもいいレストランです。ギャルソンもとてもフレンドリーで、ちょうど私が訪れたときには、日 本人のシェフが修行に来ていたところで特別に厨房の中に入れてもらいました。お料理ももちろんおいしかったです。

La Petite France
55, avenue de la Vallee des Beaux-13520 LE PARADOU
Tel: 04 90 54 41 91 (2004年度)。

さて、2009年度に訪れた際のお勧めレストランは、

Ou Ravi Prouvençau
34 av Vallée des Baux – 13520 Maussane les Alpilles
Tél. 04 90 54 31 11  I  Fax. 04 90 54 41 03
サイト Ou Ravi Prouvençau


夏は中庭で太陽の下、冬はプロヴァンス家具の置かれた落ち着いた部屋で、フランスの伝統的お料理が楽しめます。


私のお勧めは、pieds et paquets Marseillais(左端の写真)、マルセイユの伝統料理です。オリーブオイルとシブレットがかかったヤギチーズもおいしかったあ(右写真)。


日本のFIGARO雑誌で紹介されてから日本のお客さんが増えたとお店の人が言っていました。


またレストランの近くにはオリーブ工場があり、フレッシュなオリーブオイルが手に入りますよ。
Moulin Jean-Marie Cornille
この日もたくさんの観光客がお店に来ていました。3種類オリーブオイルがあり味見もできます。

Chateau des Baux シャトー・デ・ボー

13520 Les-Beaux-de- Provence
tel: 04 90 54 55 56
fax: 04 90 54 55 00
ホームページ

オ-プン時間
夏 9:00-20:30
秋・春 9:00-18:30
冬 9:00-17:00

アクセス
アヴィニョンから25km、アルルから15km
空港: 二ーム、マルセイユ、アヴィニョン
TGV: Aix-en-Provence エクサンプロヴァンス、Avignon アヴィニョン

ル キャストゥレ(プロヴァンス)

Le Castellet(ル キャストゥレ)というのは、マルセイユの東の方向に位置する小さな町の名前です。

丘の上に集落ができており中に入ると迷路のように入り組んでいてエスカルゴの中のような形をしています。たくさんのかわいらしい建物が並んでいて、ついついここもここもと写真を撮ってしまうような町です。一軒一軒きれいに花で飾られていたり、ドアがかわいかっ たり、窓がかわいかったりと、何もかもかわいらしい。静かでひっそりとした路地を歩いていくと中世の時代に戻ってしまったような感じにとらわれてしまうほど印象的。

castellet

castellet

ル  キャストゥレの歴史

Le castellet(ル キャストゥレ)は、ラテン語のCastellumキャストゥルムからきています。8世紀まではローマに、そしてその後はサラセン にと占領されてきました。さらに973年には、ギオーム一世がここプロヴァンス一帯を統治しはじめ、封建社会へと進んでいきます。ポンス・メニエというマ ルセイユの貴族がキャストゥレの新しい支配者となり、その後マルセイユの宗教組織がこの地に教会やキャストゥレ城などを建設したということです。時代は進 み1212年から1314年までキャストゥレの王はテンプラーナイトに属し(十字軍のための宗教的軍隊組織)、1437年にはこの町は王ルネ・ダンジュに よりシャルル・ドゥ・キャスティーヨンに売られてしまいます。キャスティーヨン家は1790年までこの町に属していましたが、その後の革命によりフランスへと支配権が移っていきます。

castelle


丘から見下ろした景色もすばらしい。プロヴァンスのパノラマです。

ル・キャストゥレ LE CASTELLET
Hotel de Ville 83330 Le Castellet
Tel:04-94-98-57-90、Fax:04-94-98-57-98

プロヴァンスのお土産

またこのエスカルゴ状の集落の中には、お土産やさんなども数件あり、特に目に付いたのは南仏風デザインのカ ラフルな室内装飾ランプ。すごくおしゃれできれい。さらに昔ながらのキャンドル専門店、テーブルクロスなどのプロヴァンス織物も売っていました。話を聞く と、デパートなどで買うよりこういった小さな専門店で買ったほうがプロヴァンス織物は質のいいものが揃っているそうです。種類もたくさんあるし。

provance  specialities

また面白かったのは、せみグッズがたくさん。日本と同様南仏でも夏にはせみがたくさんいるそうです。至ると ころでおもちゃのせみが「カルカルカル……」とないていて、しばらく耳に残ります。フランスでは「ミーンミーン」とはなかず「カルカルカル」だそうです。発音がとても表しにくいのですが、ルはフランス語のRの発音で。

cicada


どこもかしこもカラフルなせみ、せみ、せみ。オリーブ柄のせみも発見。

またもう一つのお薦めは、南仏名産のオリーブの木でできたまな板やいろんなお料理道具。うちでも一つ使っていますが結構使いやすい。同じくオリーブからできたSAVON de MARSEILLE(サヴォン ドゥ マルセイユ)も、すごく大きな石鹸で長持ちし、お土産にいいかもしれません。いろんなお店をまわって面白い小物を探 してみるのも楽しいかもしれません。特に女性には楽しい場所だと思います。


キューブ型になっているのが正真正銘のSAVON de MARSEILLEらしい(左奥)。手前はテントウムシつきでかわいかったので買ってもらいました。

マルセイユから車でオリーブやブドウ畑の中をドライブして一日を過ごすのも 楽しいですよ。

Le Castellet オフィシャルサイト

カルカッソンヌ

フランスは南西に位置する町、カルカッソンヌ。「カルカッソンヌを見ずして死ぬな」と称えられるほどの立派な城塞都市です。今回私たちはお正月をこのカルカッソンヌで過ごしました。お天気は曇り。人もおそらくピーク時よりは少なかったのでは。でもそれはそれでまたひっそりとした城塞の雰囲気が楽しめてよかったです。

まずクリスマスで滞在していたマルセイユから新市街地にあるカルカッソンヌ駅へ到着。カルカッソンヌの町は城塞のあるシテとオード川と 呼ばれる川の対岸にある新市街地の二つの地区に分かれます。クリスマスでもらったギフト、最新機能の付いたデジタルカメラをポケットに、いざ出陣。石畳の上をゴロゴロとスーツケースを引っ張って歩きます。でも小さな町移動もそんなに時間がかかりません。頑丈な足があれば充分!町の中心をまっずぐ突き抜いて城塞(シテ)の方へと進んでいきます。

ホテルは城塞とオード川を挟んで反対側に建つTROIS COURONNESというホテ ル。眺めは最高です。上階はレストランで、朝食も含まれてます(私たちは寝てましたが)。部屋の窓からはぼんやり浮かび上がる夜景が満喫できます。私たちはホテル前にある川沿いの遊歩道まで出て行って写真を撮りました。そしてその川に架かる橋、Pont Vieux(古い橋)もライトアップされて、昼間の様子とはぜんぜん違います。


Pont Vieux(古い橋)と呼ばれる橋の上から取った城塞。左が昼間の様子。夜はライトアップで城塞が浮かび上がるよう。とてもきれいでした。中央と右の写真はクリックで拡大します


そしてPont Vieux。普段はどうなのか分かりませんが、人が全く通らずとても静か。ぼんやり浮かび上がる様子が幻想的。
左端の紫にライトアップした写真はクリックで拡大します

Pont Vieuxの歴史

  • Pont Vieux(ポンヴュ)と呼ばれる 石の古橋は、川上にかつて建てられていた封建時代の橋に代わり、ローマ時代の新しい橋としてその用地に建てられました。時代は14世紀に遡ります。橋の建設工事は1315年には進行中で、1320年ごろにようやく完成します。建設費用をまかなうために特別な課税も制定されました。またカルカッソンヌ橋の中央全体には12のアーチが並び、その直径は不均衡で、長さは10~14mとさまざまです。そこから推測されることは、そ架橋工事が資金に合わせてアーチを一 つ一つ順番に作っていったということです。
  • Pont Vieuxは石のアーチで二つの部分に分けられていたことがあります。つまりCiteシテとVille-Basseの二つの社会の交わりが制限されていました。これはカルカッソンヌの二つの都市の住民を頻繁に巻き込んだ内部抗争が原因でした。そしてその結果そこで平和条約が結ばれます。
  • 橋の外観は1820年以降にしか変化しません。当時は優雅な二つの歩道に付けられた頑丈で軽い欄干がありました。1436年には二つのアーチが崩れ落ち、その修理に加え他の数箇所の部分も1559年に手直しされました。さらにその後も手直しがなされますが橋の元の持ち味は失われることはありませんでした。そして1820年の修復工事で一番もとの形を変化させてしまうことになります。
  • 1999年には、政府の公的機関と連絡し合いながらカルカッソンヌ市とl’Architecte des Monuments de Franceが調査を行い、Pont Vieuxの東の最端とla rue Trivalle(トゥリヴァル通り)の入り口に当たる部分を引き立たせようというプロジェクトを立てることを認めました。
  • 東側の13番面のアーチを残した状態で、BarbacaneとTrivalle通りの間のアクセス傾斜路、そして建物正面と公園 の間にあるスペースがテラスとなり平らになりました。それにより、新しく植えられた木々の並ぶ遊歩道の影に駐車場として使用できる大きな見晴らしのよい広場が出来上がります。


Pont Vieuxの城塞(シテ)側には、遊歩道やピクニックができる広場があり、ちょっと一息つくのにいい感じです。私たちは朝ホテルの朝食を寝過ごしたので、ここでサンドイッチを食べることに。そしてやはり誰もいません。静かでした。


そしてPont Vieuxの西の端には小さなチャペルが建っています。この一見なんでもなさそうなチャペルにもちゃんと歴史があります。

Chapelle Notre Dame de la Santeの歴史

  • 公正証書によると、この小さなチャペルは1527年Jean de Saixの遺贈(寄付)によるお金でペスト患者救済のための病院施設創設のために建てられたということです。この戦略上とても重要な場所には常時ガードが 置かれ、周囲地域に対し城壁としても機能していきます。
  • 今日では丸天井に刻まれた工事完了の年を伝える1697年の数字、そして古いドアの跡が見られます。
  • 川の氾濫が城壁にダメージを与えます。現代において多くの信者や観光客が訪れるように、当時もまた、このチャペルには多くの人々が訪れまし た。この病院に宿泊許可される人の数が増大していく中、さらに多くの信者を迎えるためにこのチャペルを再建築する計画を立てる必要が出てきます。そして現職の教会管理人たちによってプランが進められていきます。1685年チャペルの増築が認められ、また川の氾濫に耐えるために城壁もすでに建てられていました。


それではシテへと向かってきましょう。城塞(シテ)への入り口は二つあります。Porte d’Aude オード門(オード川沿い)とPorte Narbonnaiseナルボンヌ門(川とは反対側)。私たちはナルボンヌ門から入ったのですが、オード門側からの景色も素晴らしかったので少し寄り道を。下から城塞を見上げるような形で迫力のある景色です。入り口前に立つ教会、Eglise Saint Gimerサン・ジメール教会(右上写真)

Eglise Saint Gimerの歴史

  • Eugène Viollet-le-Duc(ヴィオレ公爵)と呼ばれる若者がカルカッソンヌを発見します。それは彼が1831年ピレネー山脈遠征の時でした。イタリアへ赴いたあと、彼は1839年おそらくそこを再び訪れています。1843年に彼はSaint-Nazaireの修復工事のレポート編集を任され、さらにその翌年、その工事の監督を任されます。それ以来、カルカッソンヌとViollet-le-Ducヴィオレ公爵の関係は彼が1879年に亡くなるまで続くことになります。
  • Viollet-le-Ducのカルカッソンヌにおける4つの作業場の中で、Saint-Gimer は一番知られていません。Viollet-le-Ducは当時建築家として活躍したかったにもかかわらず、今では修復家として考えられることが多い。彼は彼の経歴において3つの教会しか現実に仕上げることができなかったのです。それはSaint-Denis de l’Estrée、Aillant-sur-Tholon 、そしてカルカッソンヌのSaint-Gimer。
  • この教会は1854年から1859年にかけて建設されました。質素であることが掲示された目的の一つでした。なぜなら Viollet-le-Ducは限られた予算の範囲で本物の建築を実現したかったからです。
  • Saint-Gimerは一つの身廊と二つ側廊、二つの香部屋で閉ざされた多角形の後陣から成り、すべてポーチ(玄関口)から続 きます。質素な小教区教会という計画のため、Viollet-le-Ducは質素さ素朴さを優先的に考慮します。またゴシック様式のレパートリーに訴えながらも、新しいフォームも取り込んでいきます。

Porte d’Aude オード門の 歴史

  • シテ城塞の切り立つ斜面の下にあり、その城壁はオード川岸の周辺地域を守っていました。この城壁は13世紀に起源を遡ります。
    オード門(かつてのporte de Toulouseトゥルーズ門)、この門は12世紀にVisigothsの城壁に空けられました。アーチ形で、中は使用された材料や機械のため当時の雰囲 気が残ります。


こちらがPorte Narbonnaiseナルボンヌ門。Porte d’Aude オード門からぐるりと城塞の反対側に位置します。途中大きな駐車場を横に丘を上がっていきます。

Porte Narbonnaiseナルボンヌ門

  • ナルボンヌ門は城塞の東側面に位置し、威信を高める要素と快適さを目的とした要素をさまざまな軍事設備に調和させた複雑な作品である。二つの 高い塔は城塞でつながっており、そこは二重落とし格子戸システムで守られた門が整備されている。この防御設備は通路に取り付けられた撲殺用武器や異なる階に置かれた銃眼により完成される。銃眼からは弓射手が正面や垂直に攻撃することができた。
  • 16世紀から、城塞は徐々に力の象徴を失います。そこからその名声を記録するための伝説がいくつか現れます。そしてこれらの物語は Charlemagneシャルマーニュ(カール大帝)に関連した作品群の一部をなしています。その中でも一番有名なのがDame Carcasの物語。サラセン人の占領下となっていた時、カール大帝が5年を超える攻囲攻撃をシテに対して行った。そして、夫の大公が なくなった後のシテ騎士団を率いたのがDame Carcas公妃カルカスであったという。さらに攻撃が6年目に入り、シテ内では食料も水も途絶えてきた。そこでカルカスは残っているものの一覧表を作ろう としました。市民が豚一頭と小麦を持ってきた際に、彼女にある考えが浮かびます。なんとその豚に小麦を食べさせて太らせ、それを塔から町の外に捨ててしまうのです。これを見たカール大帝は、市内にまだ充分な食料があるに違いないと思い、撤退していきます。そしてその勝利を知らせるべく、町中の鐘を鳴らせま した。そして撤退中の大帝軍の一人が、《 Sire, Carcas te sonne 》と書き記します。カルカスが鐘を鳴らしている。つまり Carcas sonneでカルカッソンヌ。これが市の名前の由来です。ナルボンヌ門、右手に見える像がカルカス(左写真)。

では、ここらカルカソンヌ中世城郭都市(シテ)の中へ入っていきましょう。


Joseph Poux ジョセフ プー (1873-1938)
城塞に入るとまず目に付くのがこの石碑。Joseph Pouxはこの城塞都市を研究した歴史家です。

カルカッソンヌ2500年の歴史

  • 紀元前6世紀にガリア人が住居を築き、ローマ時代に都市として発展していく。
  • 紀元前3世紀、異国人の侵入を受け、頑丈な城壁が作られ始める。
  • 西暦435年、西ゴード王国の最北端国境都市となる。
  • 西暦725年から759年にかけてイスラム教徒に占領される。ついでフランク族の支配が始まる。
  • 封建時代、カルカッソンヌからニームにかけてトランカヴェル王朝が誕生。 11、12世紀、トゥールーズ家とバルセロナ家が競い合う時代にトランカヴェル王朝は重要な役割を果たす。
  • 1208年アルビ十字軍を募り、異教の一掃を図る。1209年レイモンロジェトランカヴェルが十字軍に降伏、シテは1226年に王領となる。 レイモンドトランカヴェル2世は1240年にしての奪還を計画するが失敗。
  • 1695年のピレネー調印まで、フランスの対アラゴン王国戦略都市として重要な役割を果たしていく。
  • 1997年ユネスコ世界遺産に登録。


城壁は二重に補強され、その長さ3000メートル。52塔を数える。


こちらは敵が侵入した際に入り口をふさいでしまうという仕掛け。


Grand Puits (大井戸)
シテにある22の井戸の中で一番古いものして知られる井戸。その縁(へり)は14世紀のもので、円柱と鉄具はルネッサンス時期にさかのぼります。伝説によるとアッティラの到来に恐怖を感じた西ゴード人がソロモン寺の宝をを隠したかもしれないという。幾度となく探されたが、発見には至らず。


途中ちょっとおなかがすいたのでクッキーやさんに立ち寄りました。店内はいろんな種類のクッキーやチョコレートでいっぱい。自分で好きなものを選んで袋につめます。

他にもお土産やさんや、カフェ、レストランなどもあります。


Basilique Saint-Nazaire サン・ナゼール大教会堂
教会の壁から浮かび上がる顔がとても怖い。きっと魔よけですね。

Basilique Saint-Nazaire の歴史

  • 925年に初めてSain Gimerサン・ジメールの司教任期中に言及され、1096年6月12日Pape Urbain II (法王ユルベン2世)により祝福の式が行われました。この教会は古代キリスト教教会の跡地に建てられ、アーチのついた高い屋根を持ちます。さらに1267 から1330年の間、ゴシック式に変えられていき、1801年に教会としての地位を失い、1898年に大教会堂となります。こちらの教会も Viollet-le-Duc(ヴィオレ公爵)によって修復されました。

時間があったので、シテの周辺を探索。なんだかおもしろいものをいくつか発見したのでご紹介します。


Maison dite “de Montmorency”
Montmorency(モンモランシー)という名の家。16世紀に建てれ、一階は石でできており、上3階は木でできています。木は砂でできた壁をサポートする役割を持っています。

右の写真は同じ通りでたくさん見かけたおもしろい雨樋。口から雨水が流れてくるようになっています。何の動物なんでしょう?竜の様だったけど。


Notre-Dame de l’Abbabye
Maison dite “de Montmorency” の同じ通りに、不思議な壁画が現れます。一枚一枚何か宗教的なものを表しているのですが、中には奇妙な生き物のような。足が3本ある?

Notre-Dame de l’Abbabye の歴史

  • カルカッソンヌのクリスチャンが初めて集まった場所とされます。
  • 8世紀に、Sainte-Marieに捧げられていた頃、サラセンの攻撃によって破壊されてしまいます。
  • 十字軍遠征の発表をした後、Pape Urbain II (法王ユルベン2世)が1096に祝福の式を挙げます。
  • 1240年にRaypond II Trencavelレイモンドトランカヴェル2世により再び破壊されます。そしてその7年後に再建築されますが、さらに地域的な争いが起こり、その度にダメージを受けます。宗教団体がそのうち定着し、教会内に庭園を作りました。


そしてこちらは新市街地で見つけたとおりの名前。RUE TRANQUILLE ルゥ トランキール 静かな通り。そのままです。本当に静かなお正月でした。

そしてお正月の夜、なーんにもレストランの予約もせずにやって来た私たち。駅近くのブラッスりーでお正月メニューがあり、そこでカクテルサービスとチョコレートのプレゼントをもらってホテルに戻りました。フランスの南西部といったらおいしいもので有名。ここのブラッスリーでも充分。大好物の鴨肉を食べてきました。クリスマスでさんざんお腹を膨らませているのに、また食べ過ぎてしまいました。

ちょっと天気は曇りでしたが、充分楽しめました。1997年に「歴史的城塞都市カルカソンヌ」の名で世界遺産に登録されており、毎年多 くの観光客が訪れるそうです。フランス国内で見ると、モン・サン=ミシェルに次いで二番目に観光客が多いんだそうです。きっと夏のヴァカンス期にはすごい 人出になるんでしょうね。正月に外出する人は断然少ないので、今回私たちのプランはのんびりしたものにできました。小さな町なので一日くらいで充分一通り 見て回れます。

カ ルカッソンヌ観光オフィス 詳しい説明や地図などがあります。ブックレットなど無料で送ってくれました(フランス国内)。が、よく見たらHP上でダウンロードできました。

(以上 カルカッソンヌ観光オフィスのガイド、一部Wikipediaより 訳aki)

ヴァンセンヌ城

ヴァンセンヌ城への行き方
パリの南東に位置し、ヴァンセンヌの森のちょうど入り口に当たります。パリ、メトロ1番線の東のターミナル、Chateau de Vincennes(シャトー ドゥ ヴァンセンヌ)。城内見学7.50ユーロ。

ヴァンセンヌ城の歴史
ヴァンセンヌ城は14世紀から17世紀にわたるフランス王の城。

他の多くの有名な城と同じく、もとは狩猟用に使うロッジとして1150年ルイ7世のために建てられました。13世紀にはフィリップ・オ ウギュストとルイ9世がさらに実質的な荘園へと築き上げていきます。またルイ9世はここヴァンセンヌから十字軍遠征に向かい、二度と戻ってこなかったとされます。そしてさらに、この土地を強化するために、天守閣がフィリップ6世によって足され、その塔は52mで中世で一番高くて頑丈な構造でした。天守 閣工事は1337年に開始。そして、天守閣を囲む長方形の城壁がヴァロワ一族によって約2世代後にようやく完成されました(1410)。

またヴァンセンヌ城はたんなる砦としてだけでなく、フィリップ3世(1274)、フィリップ4世(1322)のようにこのお城で結婚式を 挙げた王もいました。そして14世紀の王たちは皆ここヴァンセンヌ城で生まれています。ルイ10世 (1316)、フィリップ5世 (1322) 、シャルル4世(1328)。

17世紀には、ヴェルサイユ宮殿が注目を集めはじめ、ヴァンセンヌ城は多くの重要人物などが収容される牢獄の役割も果たして行きます。

18世紀この城は放棄されますが、その後まずはヴァンセンヌの陶器製造の地として(セーブル陶器博物館参考)、次に公式の収容所として、1796年には軍事品製造所として機能していきます。そして現在はthe French Armed Servicesの歴史的セクションとしての役割を果たしています。

また19世紀に英国様式の公園が作られます。そして1860年にナポレオン3世がヴァンセンヌの森と城を公共の公園として開放することになります。

ヴァンセンヌ城は1940年ドイツ軍侵略に対し、フランスが軍の本部を置いた場所でもあります。

Chateau de Vincennes ヴァンセンヌ城
12年の修復期間を終えて今年(2007年)オープンしたヴァンセンヌ城。6年前に訪れたときはまだ当然のことながら工事中で、いつかもう一度訪れたいなと思っていました。


高くそびえ立つ塔の中は意外に狭く、昔の様子が伺えます。


塔の地上階は倉庫、1階(橋のつながっている階)が出迎えの階、2階が王のプライベートの間、そして最上階には兵士たちが集まっていたそうです。


右の写真はクリックすると拡大します。


本丸を囲む塔の回廊。右の階段状にデザインされている部分は王の間。他の部分と違って、わざわざ手が加えてあります。


部屋の中は一本の柱を中心に、これが全階で一直線をなしています。


天井に使われている木材はかなり古く、時代を感じます。800年前に作られたというオリジナルです。


左は暖炉。右の写真は見にくいですが、トイレだったそうです。


実際はいろんな装飾が壁や柱に施されていたということです。

Ground Floor
中世時代には、この地上階は一階の小さな階段を使ってのみアクセスが可能でした。中庭に通じるドアのための開き口は18世紀に作られたものです。それ故に当時はこの地上階を台所として使うことはとても困難であり、代わりに貯蔵庫や召使達の部屋として使われました。 またこの階には、井戸や暖炉の跡が残っています。

また、上の階同様、この部屋も一本の柱を中心とした部屋となる予定でした。柱を隠してしまっている内側の壁は中世後期に作られたものです。19世紀に作られた窓の柵や独房の扉は、この部屋がかつて牢獄として使用されていたことを物語っています。1784年、この城の本丸は牢獄としての使用に終止符を打ち、囚人達はみなバスティーユに移されました。1785年から1790年の間は、ヴァンセンヌ村にパンを供給していたパン屋と東パリ地区が この地上階と本丸の中庭を占拠しました。

The Marquis de Sade’s cell
快楽主義哲学者、無神論者、スキャンダラスで挑発的な作家、Donatien Alphonse Francois de Sadeは好色な作品内容で悪名高かった。彼は2度、このヴァンセンヌに収容されている。一回目は15日間、売春宿での乱暴な行為に対して。二回目は、 1777年、売春婦毒殺で終身刑を宣告されました。ヴァンセンヌで7年を過ごした後、1784年にバスティーユへ移され、1790年自由を得ることになり ます。この本丸に収容されている間、彼の妻とは活発に連絡を取り合っていました。

ヴァンセンヌの牢獄
中世の頃から、フランスの王達は司法高官としての役割をも果たすために、それぞれの居住区に囚人を投獄する場所を持っていました。15世紀後半、ルイ11 世はこの本丸を囚人、時に重大な罪を犯した者などを収容するための牢獄として使い始めます。16世紀からは、公式にこの本丸が牢獄として機能していきます。その対象となったのは、プロテスタントなどの宗教異端者や政治敵対者などでした。

Pierre Ernst I of Mansfeld(1517~1604) は、the Emperor Charles Quintとルクセンブルグ総督の任務に服した戦争捕虜としてヴァンセンヌに投獄されました。しかし彼は、この本丸内で、料理などの家事をしたり、野うさ ぎやオオムなどのペットを飼うことを許されていました。そして身代金が出された後すぐに解放されることになります。

17世紀からは、フーケ(1615~1682)のように囚人は独房に入れられるようになります。1661年、彼はルイ14世によって投 獄されました(詳しくはヴォルヴィコント城参考)。

18世紀後半からは、バスティーユとともに王宮の牢獄としてシンボル化していきます。ある囚人達は裁判もなくここに連れてこられました。1749年のDiderotは、彼の作品が破壊分子的だとされ牢獄されてしまいました。

19世紀、1830年と1848年の改革後、免職となった高官たちがヴァンセンヌに収容されました。そして世界第2次世界大戦の終わりまで牢獄として使用されていきいます。

彫刻装飾
彫刻は窓の基盤に集中して用いられており、音楽を奏でる天使やファンタジー溢れる姿や予言者を描いています。これらの彫刻は修復時にコピーされたものです が、オリジナルのいくつかは中に展示してあります。音楽を奏でる天使というのは中世ヨーロッパの彫刻、ステンドグラス、絵画などによく見られ、14世紀中ごろから天のシンボルとして使われるようになりました。


音楽を奏でる天使たち

ベル塔と時計
1369年に作られたベル塔は、フランスで最初の公共時計。ここに現在たっている塔は2000年に復元されたもの。オリジナルのベルはサント・シャペルにある(サント・シャペルの ぺージも参考に)。シャルル5世によってパリ居住区に取り付けられた時計のうち、唯一現存する時計。王の書斎の上に設置され、また本丸にある王の寝室と同 じ階にあり毎日規則正しい時間を告げていた。


門の向こうに広がるのがヴァンセンヌの森(写真右)。


塔からの眺めも美しい(天気がいいともっとよかったんですが)。

参考:ウィキペディア English
ヴァンセンヌ城内の説明記事より
訳 aki

パリのメトロですぐに行けてしまうという便利さ。見学の後ヴァンセヌの森を散歩しながら一日を過ごすのもいいですね。パリはショッピングもいいですが、やっぱり歴史もおもしろいですよね。日本史と比べながら見学したりするとさらにおもしろい。ここでどんな人がどんな事を思っていたんだろ うと考えるとぞくぞくしてしまう。

ヴァンセンヌ城 オフィ シャルサイト