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フォンテーヌブロー宮殿

パリの南東郊外55kmに位置する町Fontainebleauフォンテーヌブロー。そしてその町に構えるのがフォンテーヌブロー宮殿。フランスでも最も大きな宮殿の一つとされ、1981年にユネスコ世界遺産にも登録されています。今日ある宮殿の姿は多くのフランス君主による築城の成果であり、その始まりは16世紀初頭のフランソワ1世にさかのぼります。

パリからはGare de Lyon〈リヨン駅)から電車が出ており約45分ほどでFontainebleau‐Avon駅へ、そしてそこからはフォンテーヌブロー宮殿行きバスで15分。詳しくはページ下のフォーンテーヌブロー市オフィシャルサイトにて詳細+地図が載っています。

フォンテーヌブロー宮殿の歴史

1169年: フォンテーヌ・ベル・オー(Fontaine Belle Eau)あるいはフォンテーヌ・ブロー(Fontaine Belleau)と名前が残されている。

12世紀後半: この敷地にあった古い城はすでにルイ7世(1120‐1180)よって利用されており、カンタベリ大主教であったトマス・ベケット(Thomas Becket)が彼のために礼拝堂を捧げている。

13世紀: またこのフォンテーヌブロー城はフィリップ2世(フィリップオーギュスト1165 ‐1223)やルイ9世(1214‐1270)のお気に入りの城でもあった。

14世: フィリップ4世〈端麗王1268‐1314)がフォーンテーヌブロー城にて誕生。逝去もこの城にて。

15世紀~16世紀: フランソワ1世(1494‐1547)により現在のような建物へと造りかえられていきます。フランソワ1世のもと、Gilles le Bretonという建築家が南門Porte Doree(黄金の門)を含むCour Ovale(楕円宮廷)のほとんどを建築。また王は建築家のSebastiano Serlioをフランスに招き、Leonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ)も呼び寄せている。Rosso Fiorentinoによるフレスコでフランソワ1世のギャラリーは飾られ、これがフランスで建てられた一番最初の装飾ギャラリーとなった。

大まかに言うと、このフォンテーヌブローでルネッサンスがフランスへと流れ込んできます。

16世紀前半~中期: アンリ2世(1519 ‐1559)の治世において、Salle des Fetes(祝祭の広間)がイタリアのマニエリスム画家Francesco PrimaticcioとNiccolo dell’Abbatteによって装飾されます。「フォンテーヌブローのニンフ〈妖精)」は、宮殿装飾のために作られましたが、現在はルーブルにあるそうです。さらにアンリ2世とCatherine de Medici(カトリーヌ・ド・メディシス)により拡張建築がなされます。アンリ3世(1551‐1589)フォンテーヌ城にて誕生。

16世紀後半~17世紀前半: このフランソワ1世からアンリ2世までに築かれてきた城にアンリ4世(1553‐1610)は中庭を付け加え、名をCour des Princes(王の中庭)としました。その庭にはGalerie de Diane de Poitiers(ディアーヌ・ド・ポワチエのギャラリー)や Galerie des Cerfs(雄鹿のギャラリー)が設置され図書室として利用され、さらに木々で覆われた庭園に1200mの水路を設け、松やエルムの木、果樹などを植えるように命令します。ルイ13世(1601‐1643)フォンテーヌ城にて誕生。

1685年: ルイ14世により「フォンテーヌブローの勅令」発令。これによりナントの勅令が破棄されることになります。ナントの勅令とは、1598年アンリ4世によるもので、プロテスタント〈ユグノー)などに対してカトリックと同じ権利を与えるという勅令。

18世紀後半: 城の不運が始まる。フランス革命期に多くの調度品が売りに出される。国民のための資金を調達する目的と、ブルボン家が二度と贅沢な生活に戻れないようにするためである。しかしながら、10年も経たないうちにナポレオン・ボナパルトがこの城を彼の力のシンボルとして利用するようになります。荷馬車が通れるよう石畳のエントランスに作り変えさせたりこの城の修正を図り、ナポレオンによって現在我々が目にする宮殿が完成されます。

1814年: フォンテーヌブロー宮殿にてナポレオンが親衛隊に別れの挨拶をし亡命する。

こうして見てみるとさまざまな王たちがここフォンテーヌブロー宮殿で過ごしてきた様子が分かります。では、ここから中の様子を。


まず門をくぐり敷地内に入るとお城までの石畳の道が続きます。ここがナポレオンが近衛兵と別れを告げた「別離の中庭」。ナポレオンはエルバ島へ流されます。


横を見ても上を見ても隙間のないくらいの装飾です。こちらは「皿の間」と呼ばれ皿絵で飾られています。一枚一枚よーく見てみましょう。セーブル陶器博物館でも同じものを見ました。


扉の向こうに見える奥行きに圧倒されます。


フランソワ1世の回廊」。壁にはフランソワ1世の紋章サラマンダーとイニシャルFの文字が見えます。サラマンダーとは、《苦難に負けずに貫き通される信仰や熱情にとらわれない貞節、善なる火を燃え上がらせ悪なる火を消し去る正義を表す》とされています。


そしてこちら、「フランソワ1世の回廊」にあった絵。人が集まって話していたのを横で聞いていたところ、この白い像は力と知恵の象徴で足元のコウノトリが国王の母への敬意を表しているんだとか。一つ一つちゃんと意味があるんですね。フランソワ1世がイタリアから呼び寄せた画家ロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino)のフレスコ画だそうです。


皇后の寝室」〈左と中央)。歴代の王妃や皇后の寝室として使われてきたそうです。


ルイ13世の間」(右)。ルイ13世がフォンテーヌ宮で誕生。父アンリ4世がその誕生を祝って豪華に改装したんだそうです。テーブルの上にはセーブル焼きの壺、そしてそのテーブルにも工夫がしてあり座る人ごとに各引き出しが付いています。


次から次へと豪華な部屋が現れます。左写真は「マリーアントワネットの小部屋」。フォーンテーヌブローはもともと王たちの狩猟を楽しむ場所として城が建てられました。ルイ16世ももちろん毎年ここへ猟をするためにやってきたことでしょう。しかしこの時代には城の老朽化が進み、王の間が拡張され、王妃の小部屋が改装されることになりました。改装後はマリーアントワネット好みの装飾に変えられ、部屋にある家具も彼女用にデザインされたものです。「皇后の寝室」にあるベッドもマリーアントワネットのために作られたものです。右写真は「王の控え室」。


ナポレオン王座の間」(左写真)。ナポレオンがここに座っていたんですねえ。両端のポールの上にナポレオンのイニシャルNが見えます。そして中央写真は「ナポレオンの小部屋」と呼ばれ、この机でいろんな案を練っていたんでしょうね。机には仕掛けがあり一瞬で書類が隠せるようになっているそうです。ナポレオンはあまり寝ない人だったようで後ろに簡易ベッドが備え付けてあります。右写真はナポレオンが読んだであろう本が収められている「ディアナの回廊」。


そしてこちらお風呂(左)。ナポレオンはお風呂好きだったとか。「ナポレオンの寝室」〈中央と右)。こちらも落ち着いた緑色で統一されています。ここにおいてある椅子にも工夫がしてあります。暖炉にあたる側は手掛が低くなっており、もう片方は高くなっています。よく温まれるように工夫してあるんですね。


会議の部屋」(左)。そして赤で統一された「退位の間」(右)はナポレオンが退位するときに書類にサインをした部屋だそうです。


そして途中みつけたおもしろい一品。中央は秒針と分針の付いた普通の時計なのですが、その周りに曜日だの月名だの、うるう年だの、太陽、月の位置だの星座だのといろんなものがくっついています!


トリニテ礼拝堂」。左は城に入ってすぐのところで、礼拝堂を見下ろすような感じ。右は下から見上げた様子です。元は聖王ルイが建てた聖堂を三位一体修道会(トリニテ修道会)が引き継ぎました。ここで国王と王妃が毎日ミサに参加していたんですね。


さあ、外に出てちょっと休憩。たくさんの部屋を見終わって、主人と一緒に歴史話。ヴェルサイユ宮殿もそうですがこれだけの財力が一部の選ばれた人間に集中するなんてものすごいことですよね。そんな時代があったからフランス革命につながるのでしょうが。歴代王が居住した宮殿ということで、なんとなく一度にいろんな時代を駆け回ったような一日でした。

さあ またバスと電車でパリに戻ります。ちょっと大変だけれども時間があればぜひ一度。

関連サイト
フォンテーヌブロー市オフィシャルサイト

フォンテーヌ宮殿オフィシャルサイト

以上参考ウィキペディア、宮殿内ガイドより

カルカッソンヌ

フランスは南西に位置する町、カルカッソンヌ。「カルカッソンヌを見ずして死ぬな」と称えられるほどの立派な城塞都市です。今回私たちはお正月をこのカルカッソンヌで過ごしました。お天気は曇り。人もおそらくピーク時よりは少なかったのでは。でもそれはそれでまたひっそりとした城塞の雰囲気が楽しめてよかったです。

まずクリスマスで滞在していたマルセイユから新市街地にあるカルカッソンヌ駅へ到着。カルカッソンヌの町は城塞のあるシテとオード川と 呼ばれる川の対岸にある新市街地の二つの地区に分かれます。クリスマスでもらったギフト、最新機能の付いたデジタルカメラをポケットに、いざ出陣。石畳の上をゴロゴロとスーツケースを引っ張って歩きます。でも小さな町移動もそんなに時間がかかりません。頑丈な足があれば充分!町の中心をまっずぐ突き抜いて城塞(シテ)の方へと進んでいきます。

ホテルは城塞とオード川を挟んで反対側に建つTROIS COURONNESというホテ ル。眺めは最高です。上階はレストランで、朝食も含まれてます(私たちは寝てましたが)。部屋の窓からはぼんやり浮かび上がる夜景が満喫できます。私たちはホテル前にある川沿いの遊歩道まで出て行って写真を撮りました。そしてその川に架かる橋、Pont Vieux(古い橋)もライトアップされて、昼間の様子とはぜんぜん違います。


Pont Vieux(古い橋)と呼ばれる橋の上から取った城塞。左が昼間の様子。夜はライトアップで城塞が浮かび上がるよう。とてもきれいでした。中央と右の写真はクリックで拡大します


そしてPont Vieux。普段はどうなのか分かりませんが、人が全く通らずとても静か。ぼんやり浮かび上がる様子が幻想的。
左端の紫にライトアップした写真はクリックで拡大します

Pont Vieuxの歴史

  • Pont Vieux(ポンヴュ)と呼ばれる 石の古橋は、川上にかつて建てられていた封建時代の橋に代わり、ローマ時代の新しい橋としてその用地に建てられました。時代は14世紀に遡ります。橋の建設工事は1315年には進行中で、1320年ごろにようやく完成します。建設費用をまかなうために特別な課税も制定されました。またカルカッソンヌ橋の中央全体には12のアーチが並び、その直径は不均衡で、長さは10~14mとさまざまです。そこから推測されることは、そ架橋工事が資金に合わせてアーチを一 つ一つ順番に作っていったということです。
  • Pont Vieuxは石のアーチで二つの部分に分けられていたことがあります。つまりCiteシテとVille-Basseの二つの社会の交わりが制限されていました。これはカルカッソンヌの二つの都市の住民を頻繁に巻き込んだ内部抗争が原因でした。そしてその結果そこで平和条約が結ばれます。
  • 橋の外観は1820年以降にしか変化しません。当時は優雅な二つの歩道に付けられた頑丈で軽い欄干がありました。1436年には二つのアーチが崩れ落ち、その修理に加え他の数箇所の部分も1559年に手直しされました。さらにその後も手直しがなされますが橋の元の持ち味は失われることはありませんでした。そして1820年の修復工事で一番もとの形を変化させてしまうことになります。
  • 1999年には、政府の公的機関と連絡し合いながらカルカッソンヌ市とl’Architecte des Monuments de Franceが調査を行い、Pont Vieuxの東の最端とla rue Trivalle(トゥリヴァル通り)の入り口に当たる部分を引き立たせようというプロジェクトを立てることを認めました。
  • 東側の13番面のアーチを残した状態で、BarbacaneとTrivalle通りの間のアクセス傾斜路、そして建物正面と公園 の間にあるスペースがテラスとなり平らになりました。それにより、新しく植えられた木々の並ぶ遊歩道の影に駐車場として使用できる大きな見晴らしのよい広場が出来上がります。


Pont Vieuxの城塞(シテ)側には、遊歩道やピクニックができる広場があり、ちょっと一息つくのにいい感じです。私たちは朝ホテルの朝食を寝過ごしたので、ここでサンドイッチを食べることに。そしてやはり誰もいません。静かでした。


そしてPont Vieuxの西の端には小さなチャペルが建っています。この一見なんでもなさそうなチャペルにもちゃんと歴史があります。

Chapelle Notre Dame de la Santeの歴史

  • 公正証書によると、この小さなチャペルは1527年Jean de Saixの遺贈(寄付)によるお金でペスト患者救済のための病院施設創設のために建てられたということです。この戦略上とても重要な場所には常時ガードが 置かれ、周囲地域に対し城壁としても機能していきます。
  • 今日では丸天井に刻まれた工事完了の年を伝える1697年の数字、そして古いドアの跡が見られます。
  • 川の氾濫が城壁にダメージを与えます。現代において多くの信者や観光客が訪れるように、当時もまた、このチャペルには多くの人々が訪れまし た。この病院に宿泊許可される人の数が増大していく中、さらに多くの信者を迎えるためにこのチャペルを再建築する計画を立てる必要が出てきます。そして現職の教会管理人たちによってプランが進められていきます。1685年チャペルの増築が認められ、また川の氾濫に耐えるために城壁もすでに建てられていました。


それではシテへと向かってきましょう。城塞(シテ)への入り口は二つあります。Porte d’Aude オード門(オード川沿い)とPorte Narbonnaiseナルボンヌ門(川とは反対側)。私たちはナルボンヌ門から入ったのですが、オード門側からの景色も素晴らしかったので少し寄り道を。下から城塞を見上げるような形で迫力のある景色です。入り口前に立つ教会、Eglise Saint Gimerサン・ジメール教会(右上写真)

Eglise Saint Gimerの歴史

  • Eugène Viollet-le-Duc(ヴィオレ公爵)と呼ばれる若者がカルカッソンヌを発見します。それは彼が1831年ピレネー山脈遠征の時でした。イタリアへ赴いたあと、彼は1839年おそらくそこを再び訪れています。1843年に彼はSaint-Nazaireの修復工事のレポート編集を任され、さらにその翌年、その工事の監督を任されます。それ以来、カルカッソンヌとViollet-le-Ducヴィオレ公爵の関係は彼が1879年に亡くなるまで続くことになります。
  • Viollet-le-Ducのカルカッソンヌにおける4つの作業場の中で、Saint-Gimer は一番知られていません。Viollet-le-Ducは当時建築家として活躍したかったにもかかわらず、今では修復家として考えられることが多い。彼は彼の経歴において3つの教会しか現実に仕上げることができなかったのです。それはSaint-Denis de l’Estrée、Aillant-sur-Tholon 、そしてカルカッソンヌのSaint-Gimer。
  • この教会は1854年から1859年にかけて建設されました。質素であることが掲示された目的の一つでした。なぜなら Viollet-le-Ducは限られた予算の範囲で本物の建築を実現したかったからです。
  • Saint-Gimerは一つの身廊と二つ側廊、二つの香部屋で閉ざされた多角形の後陣から成り、すべてポーチ(玄関口)から続 きます。質素な小教区教会という計画のため、Viollet-le-Ducは質素さ素朴さを優先的に考慮します。またゴシック様式のレパートリーに訴えながらも、新しいフォームも取り込んでいきます。

Porte d’Aude オード門の 歴史

  • シテ城塞の切り立つ斜面の下にあり、その城壁はオード川岸の周辺地域を守っていました。この城壁は13世紀に起源を遡ります。
    オード門(かつてのporte de Toulouseトゥルーズ門)、この門は12世紀にVisigothsの城壁に空けられました。アーチ形で、中は使用された材料や機械のため当時の雰囲 気が残ります。


こちらがPorte Narbonnaiseナルボンヌ門。Porte d’Aude オード門からぐるりと城塞の反対側に位置します。途中大きな駐車場を横に丘を上がっていきます。

Porte Narbonnaiseナルボンヌ門

  • ナルボンヌ門は城塞の東側面に位置し、威信を高める要素と快適さを目的とした要素をさまざまな軍事設備に調和させた複雑な作品である。二つの 高い塔は城塞でつながっており、そこは二重落とし格子戸システムで守られた門が整備されている。この防御設備は通路に取り付けられた撲殺用武器や異なる階に置かれた銃眼により完成される。銃眼からは弓射手が正面や垂直に攻撃することができた。
  • 16世紀から、城塞は徐々に力の象徴を失います。そこからその名声を記録するための伝説がいくつか現れます。そしてこれらの物語は Charlemagneシャルマーニュ(カール大帝)に関連した作品群の一部をなしています。その中でも一番有名なのがDame Carcasの物語。サラセン人の占領下となっていた時、カール大帝が5年を超える攻囲攻撃をシテに対して行った。そして、夫の大公が なくなった後のシテ騎士団を率いたのがDame Carcas公妃カルカスであったという。さらに攻撃が6年目に入り、シテ内では食料も水も途絶えてきた。そこでカルカスは残っているものの一覧表を作ろう としました。市民が豚一頭と小麦を持ってきた際に、彼女にある考えが浮かびます。なんとその豚に小麦を食べさせて太らせ、それを塔から町の外に捨ててしまうのです。これを見たカール大帝は、市内にまだ充分な食料があるに違いないと思い、撤退していきます。そしてその勝利を知らせるべく、町中の鐘を鳴らせま した。そして撤退中の大帝軍の一人が、《 Sire, Carcas te sonne 》と書き記します。カルカスが鐘を鳴らしている。つまり Carcas sonneでカルカッソンヌ。これが市の名前の由来です。ナルボンヌ門、右手に見える像がカルカス(左写真)。

では、ここらカルカソンヌ中世城郭都市(シテ)の中へ入っていきましょう。


Joseph Poux ジョセフ プー (1873-1938)
城塞に入るとまず目に付くのがこの石碑。Joseph Pouxはこの城塞都市を研究した歴史家です。

カルカッソンヌ2500年の歴史

  • 紀元前6世紀にガリア人が住居を築き、ローマ時代に都市として発展していく。
  • 紀元前3世紀、異国人の侵入を受け、頑丈な城壁が作られ始める。
  • 西暦435年、西ゴード王国の最北端国境都市となる。
  • 西暦725年から759年にかけてイスラム教徒に占領される。ついでフランク族の支配が始まる。
  • 封建時代、カルカッソンヌからニームにかけてトランカヴェル王朝が誕生。 11、12世紀、トゥールーズ家とバルセロナ家が競い合う時代にトランカヴェル王朝は重要な役割を果たす。
  • 1208年アルビ十字軍を募り、異教の一掃を図る。1209年レイモンロジェトランカヴェルが十字軍に降伏、シテは1226年に王領となる。 レイモンドトランカヴェル2世は1240年にしての奪還を計画するが失敗。
  • 1695年のピレネー調印まで、フランスの対アラゴン王国戦略都市として重要な役割を果たしていく。
  • 1997年ユネスコ世界遺産に登録。


城壁は二重に補強され、その長さ3000メートル。52塔を数える。


こちらは敵が侵入した際に入り口をふさいでしまうという仕掛け。


Grand Puits (大井戸)
シテにある22の井戸の中で一番古いものして知られる井戸。その縁(へり)は14世紀のもので、円柱と鉄具はルネッサンス時期にさかのぼります。伝説によるとアッティラの到来に恐怖を感じた西ゴード人がソロモン寺の宝をを隠したかもしれないという。幾度となく探されたが、発見には至らず。


途中ちょっとおなかがすいたのでクッキーやさんに立ち寄りました。店内はいろんな種類のクッキーやチョコレートでいっぱい。自分で好きなものを選んで袋につめます。

他にもお土産やさんや、カフェ、レストランなどもあります。


Basilique Saint-Nazaire サン・ナゼール大教会堂
教会の壁から浮かび上がる顔がとても怖い。きっと魔よけですね。

Basilique Saint-Nazaire の歴史

  • 925年に初めてSain Gimerサン・ジメールの司教任期中に言及され、1096年6月12日Pape Urbain II (法王ユルベン2世)により祝福の式が行われました。この教会は古代キリスト教教会の跡地に建てられ、アーチのついた高い屋根を持ちます。さらに1267 から1330年の間、ゴシック式に変えられていき、1801年に教会としての地位を失い、1898年に大教会堂となります。こちらの教会も Viollet-le-Duc(ヴィオレ公爵)によって修復されました。

時間があったので、シテの周辺を探索。なんだかおもしろいものをいくつか発見したのでご紹介します。


Maison dite “de Montmorency”
Montmorency(モンモランシー)という名の家。16世紀に建てれ、一階は石でできており、上3階は木でできています。木は砂でできた壁をサポートする役割を持っています。

右の写真は同じ通りでたくさん見かけたおもしろい雨樋。口から雨水が流れてくるようになっています。何の動物なんでしょう?竜の様だったけど。


Notre-Dame de l’Abbabye
Maison dite “de Montmorency” の同じ通りに、不思議な壁画が現れます。一枚一枚何か宗教的なものを表しているのですが、中には奇妙な生き物のような。足が3本ある?

Notre-Dame de l’Abbabye の歴史

  • カルカッソンヌのクリスチャンが初めて集まった場所とされます。
  • 8世紀に、Sainte-Marieに捧げられていた頃、サラセンの攻撃によって破壊されてしまいます。
  • 十字軍遠征の発表をした後、Pape Urbain II (法王ユルベン2世)が1096に祝福の式を挙げます。
  • 1240年にRaypond II Trencavelレイモンドトランカヴェル2世により再び破壊されます。そしてその7年後に再建築されますが、さらに地域的な争いが起こり、その度にダメージを受けます。宗教団体がそのうち定着し、教会内に庭園を作りました。


そしてこちらは新市街地で見つけたとおりの名前。RUE TRANQUILLE ルゥ トランキール 静かな通り。そのままです。本当に静かなお正月でした。

そしてお正月の夜、なーんにもレストランの予約もせずにやって来た私たち。駅近くのブラッスりーでお正月メニューがあり、そこでカクテルサービスとチョコレートのプレゼントをもらってホテルに戻りました。フランスの南西部といったらおいしいもので有名。ここのブラッスリーでも充分。大好物の鴨肉を食べてきました。クリスマスでさんざんお腹を膨らませているのに、また食べ過ぎてしまいました。

ちょっと天気は曇りでしたが、充分楽しめました。1997年に「歴史的城塞都市カルカソンヌ」の名で世界遺産に登録されており、毎年多 くの観光客が訪れるそうです。フランス国内で見ると、モン・サン=ミシェルに次いで二番目に観光客が多いんだそうです。きっと夏のヴァカンス期にはすごい 人出になるんでしょうね。正月に外出する人は断然少ないので、今回私たちのプランはのんびりしたものにできました。小さな町なので一日くらいで充分一通り 見て回れます。

カ ルカッソンヌ観光オフィス 詳しい説明や地図などがあります。ブックレットなど無料で送ってくれました(フランス国内)。が、よく見たらHP上でダウンロードできました。

(以上 カルカッソンヌ観光オフィスのガイド、一部Wikipediaより 訳aki)

ランス(シャンパーニュ)

パリの東駅からブドウ畑の広がる景色を外に1時間半、シャンパーニュ地方の中心ランスへと着きます。今回はたまたま主人が平日に休みがとれ、急きょ日帰りトリップを計画。平日ということで、一人40ユーロの往復切符が20ユーロに!二人で一人分の料金です。

ランスの歴史

・498年にフランク王国のクロヴィスが洗礼を受けてから、シャルル10世まで歴代フランス王が25人もここで戴冠式を行いました。

・第二次世界大戦では一時ドイツに占領され大きな被害を受けました。

・1991年にユネスコ世界遺産に フランス三大聖堂の一つノートルダムが認定。このノートルダムでは過去シャルル7世の戴冠式が行われ、ジャンヌ・ダルクもその式に列席したことで有名です。13世紀のゴシック建築。

ランスの世界遺産

Notre-Dame Cathedral
ノートルダム大聖堂
オープン:7:30am~7:30pm
ツーリストインフォーメーションもここにあるのでまずは地図をもらいましょう。

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ランスの駅から歩いて10分くらい、町の中心に壮大な聖堂が姿を現します。
ドイツ軍に破壊されたという歴史を持ちますが、そんなことを全く感じさせない雄大さです。

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ゴシック彫刻。近くから見ると本当に一つ一つの作品がとても細かいんです。

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空にそびえ立つ塔の中。何百年前にどうやってこんな建物が建てることができたんだろうと。
右は聖堂内で見つけたからくり時計。

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礼拝用の椅子。床につくほど低い高さなのが分かるでしょうか。

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左はシャガールがデザインしたステンドグラス。
オリジナルは第一次世界大戦で壊されてしまいました。

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右の石板に描かれた絵には、王がノートルダムを手に抱えています。

Tau Palace
トー宮殿
5月~9月 9:30am~6:30pm
9月~5 月 9:30~12:30 2:00pm~5:30pm
休館:月曜、1月1日、5月1日、11月1日・11日、12月25日
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ノートルダムの裏へとまわると小さな庭にこのトー宮殿がたっています。
写真はそこから見たノートルダムです。
この宮殿には戴冠式で使われた宝物や修復前の大聖堂の彫刻などの展示がされています。

Saint-Remi Basilica
サン・レミ聖堂
オープン:8:00am~7:00pm

Museum of the Former Jesuits College
サン・レミ修道院博物館
改築のため閉館(2006年11月現在)

ランスの街中

mainstreet

lunch
駅前通り(広場)Pl.Drouet d’Erlonはレストラン通りになっており、この日もまたシュクートをランチに。
これで2人分(一人分15ユーロなり)。実際食べてみた感想は4人分でした。チャレンジしてみてください。
やっぱり北に来るとソーセージやハムがおいしいなあ。

nd

reims
腹ごしらえをした後は、消化のために歩きました。
街中は中世を思い出させるよな雰囲気です。

wine shop

wine shop
そしてランスと言えばシャンパン。あちこちにシャンパン見学工場が。

arch
そして駅前には散歩道が通っていて、そこで発見したのがこちら。
Port Mars マルスの門。 3世紀に作られたというローマ時代の遺跡です。

そこからさらに東にRue du Champ de Mars通りを歩いていくとシャンパン工場、G.H.MUMMがあります。
ひっそりとした通りに、お屋敷のようなオフィスと向かいに工場。

wine shop

wine shop
G.H.MUMM 34、rue du champ de mars
オープン:5月1日~10月31日 毎日
9:00am~10:50pm 2:00am~4:40pm
シーズンオフの場合は予約要
サイトチェック

そしてそのお隣にひっそり佇む小さなチャペル。
CHAPELLE FOUJITA
チャペル フジタ

foujita chapel

foujita chapel
33, rue du champ de mars
オープン:5月2日~10月31日
2:00mp~6:00pm
休館:水曜日、7月14日

藤田嗣治は1930年代にパリに渡り、第二次世界大戦直前に日本に帰国。しかしそこで、戦争中に描かさ れた絵の戦争責任を問われることに。戦争犯罪を負わされ、再び母国を離れフランスへと。そこで知り合ったのがMUMMの経営者ルネ・ラルー。そして彼はまたフジタの洗礼親でもありました。レオナール・フジタとしての新しい出発です。

1966年、レオナール・フジタは、そのお礼として、このMUMMの工場の隣にフレスコ画を描きました。彼の傑作は絵のみにおさまらず、このチャペルの建物、彫刻、そしてステンドグラスにいたるまで全てをデザインしました。彼が80歳の時でした。そして 2年後、1968年スイスにて癌で亡くなります。彼の遺体はこのチャペルの床下に眠っているそうです。

ここへ来るまで、このレオナール・フジタという名前を聞いたことがありませんでした。実際チャペルを眺めて、そんな時代にこんなところで日本人が一生を送っていたんだと考えるとなんとも言えない気持ちになってしまいました。どんな気持ちで日本を離れて行っ たのだろうと思うと、とても切なくなります。戦争を二度と起こしてはいけません。

今回は11月ともあって、中に入れませんでしたがまた訪れたいと思っています。

ランスのお土産

wine

wine
ランスと言えばシャンパン。

ノートルダム大聖堂前にあるワインショップでお薦めを聞いて3本購入。

Philippe Gonet 2000 サイトチェック 35ユーロ。2000年に 採れた最高のブドウだけでできているという。
ドンペリに匹敵するくらいの質だそうです。これが日本に行ったらものすごい値段になるんだろうなあと。

他の2本はGonetPaul Dethune大体20ユーロくらい。
シャンパンの地元なのでお手ごろな価格で購入できます。

またシャンパンのアペリティフもいろいろ。

FOSSIER
サイトチェック

sanck
シャンパンサブレ。

snack
ランス名産、ローズビスケット。シャンパンに浸して食べるんだとか。

snack
お塩ビスケット。

急に計画した旅ではありましたが、かなり楽しめた一日でした。世界遺産を見て、歴史を知り、シャンパンをリーゾナブルに楽しみ、おいしいものも食べられます。

ちょっと感じたのは、北に行けば行くほど、笑顔があまり見られないことかな。主人いわく典型的な北だと。挨拶しても、返事が返ってこなかったり、席を譲ってもメルシーともなんとも言わない。寒いしそんな笑ってられないわよねと思うようにしました。

でもいい所でしたよ。機会 があったら訪れてみて下さい。

ランス観光局

シャルトル大聖堂

パリの南西約96km。中世の雰囲気を残す町。
人口42,059人。

city view
パリからの交通:モンパルナス駅(Gare Monparnasse)からシャルトル(Chartres)行き、ブレスト(Breast)行きなどに乗車、シャルトル下車。約1時間の旅。往復約20 ユーロ。途中Chantiers という駅からベルサイユ宮殿の姿が見られますよ。Chantiersシャンティエーとは労働者を表し、この町には昔ヴェルサイユ宮殿建築のために集められた労働者が一同に生活していた場所だと考えられます。

chartres face
シャルトル大聖堂。世界遺産。ロマネスク様式とゴシック様式の接点といわれる中世教会建築の傑作のひとつ。聖堂の裏手にある展望台からはシャルトルの町が 一望できる。建築様式、彫刻様式と共に、フランス最古のステンドグラス「シャルトルブルー」も見逃せません。また宝物 殿には聖母マリアがキリストを生んだ時に着ていたといわれる聖衣が納められ、世界各地から巡礼者が訪れます。 8:00~19:30 無休 02 37 18 26 26。

stained glass

stained glass
シャルトルブルー フランスで最古のステンドグラスといわれるととても重みを感じます。 172枚のの窓が使われており、ヨーロッパでも一番の美しさと古さを持ちます。

maria cloth
聖母マリアの 聖衣

sculpture

interior sculpture
外観の彫刻、室内の彫刻も素晴らしい。 12,13世紀最高の芸術。大聖堂は司教の権力また中世市民の信仰心の象徴であった。1144年から1260年にわたり建築が行われ、のちゴシック建築 をそのまま現代に伝えることのできる建物としてユネスコによって世界遺産に認定。内装の様子はキリスト教の物語を表現しており、130.20メートル奥行 き、37.50メ-トルの高さの空間に納まっています。

tourist course

old houses
大聖堂の裏手にはシャルトルの町のパノラマ。そしてそこから階段を下りていくと町の中へと観光散策道が続きます。とても静かで川沿いに歩いていくと心が和 みます。また中世を思い出させるユニークなデザインの建物を発見することができます。散策道の地図は観光案内所にあるブックレットに載っています。

restaurant

restaurant
シャルトル大聖堂のすぐそばで見つけたおすすめのレストラン。 La vielle Maisonラ・ヴィエイユ・メゾン。大聖堂の向かって右側の細い路地に位置します。名前の通り古い中世を感じさせるような落ち着いた雰囲気の店内でメ ニューもとてもクリエイティブでおいしかったです。メロンのスープが前菜で、タルタルサーモンとチキンバジルソース。デザートはチョコレートムース。盛り 付けがとてもきれいでした。お昼時は地元の人が多く集まる人気のレストランらしく、テーブルがうまってしまい入れなかった人達もいました。

tourist office
観光案 内所
シャルトル大聖堂前にある建物が案内所です。ここで町の地図をもらって観光するといいでしょう。