Category Archives: フランス観光

ロワールのお城

Chambord (シャンボール城)
フランソワ1世の狩猟小屋として始まった城は、1519年から1547年にかけて建設されていきました。お城の見所としては、何と言っても二重螺旋階段。この二つの階段を使えば相手に出会うことなく3回に昇り降りができるのです。 豪華絢爛なお城ですが、実際フランソワ1世が滞在したのは32年間の統治生活の中で72日。お城が完成する前にこの世を去ることになります。現在のお城の姿はその後に続く王、アンリ2世とルイ14世が築き上げました。 あくまでも王様の狩猟が目的であったため、お城の中は部屋というよりもオープンスペースが多い。なんと贅沢なことでしょう。

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とにかく敷地が広い。パーキングまでのながーい道のり。そしてまたパーキングからお城まで歩いて行きます。あ、パーキング料金の払い忘れに注意してください。パーキングで払うのではなく、お城の近くに料金所があるようです。私達はそれに後で気がつき、また長い道のりを歩くはめになってしまいました・・・。

Chambord  オフィシャルサイト

お昼は、お城を見ながらフランス料理はいかがでしょう。ちょうど出発する1ヶ月前にフランスの雑誌でおすすめとあったので予約してみました。

Restaurant du Grand Saint Michel

103 place St-Michel, 41250 Chambord, France

お天気がいいと、外でお城を目の前に食事を満喫できるでしょう。お店の名前を見ると高級な感じがしますが、料金も味の方もカジュアルです。

Château du Clos Lucé (クロ・リュセ城)
こちらはレオナルド・ダ・ヴィンチが住んでいた館です。1516年フランソワ1世の招きでイタリアからやって来ました。当時既に60歳を超えていたダ・ヴィンチはここで約3年間過ごすことになります。

ここはかなりおすすめ。いろんな発明品が模型と一緒に説明されていてとてもおもしろい。

庭もかなり広いです。そして至る所にダ・ヴィンチの発明品が。実際動かして試してみることもできますよ!

Château du Clos Lucé  オフィシャルサイト(音に注意)

Chenonceau (シュノンソー城)
貴婦人たちの城と呼ばれるように、このお城の城主は6人の女性でした。

ディアーヌ・ド・ポワティエ:国王アンリ2世の愛妾。
カトリーヌ・ド・メディシス:アンリ2世の正妻。アンリ2世の未亡人となった後、ディアーヌ・ド・ポワティエを城から追い出し、城の建設工事を進める。
ルイーズ・ド・ロレーヌ:アンリ3世の妻。アンリ3世を失くし、シュノンソー城に引き蘢り祈りの日々を送る。
ルイーズ・デュパン:シュノンソー城が大地主クロード・デュパンに売却。ルイーズはその妻。城で知識人サロンを開催。フランス革命でシュノンソー城を守った。
マルグリッド・ペルーズ:産業資産家出身。ディアーヌ・ド・ポワティエ時代の城の姿に復元するため多大な費用を投じる。しかし政治的陰謀に巻き込まれ破産。その後シュノンソー城は数回に渡り売却。
シモーヌ・ムニエ:第一次大戦中、城のギャラリーを病院に改装。看護婦長として病院を運営。

おそらく一番印象に残るのはルイーズ・ド・ロレーヌの居室ではないでしょうか。彼女は夫アンリ3世が亡くなった後、ずっと白い服を身に付け瞑想と祈りのためにこの城に籠りました。真っ暗なその部屋に入ると、その悲しみが伝わって来そうです。

シェール川にかかる美しいお城です。川ではボート遊びをする人々も。昔もこんな感じだったのでしょうか。

ギャラリーです。ここが戦時中病院として機能していたんですね。第二次世界大戦ではこのシェール川はドイツ軍に占領されており、城の入り口(右岸)は占領地区側、ギャラリーの南側の扉は左岸の非占領地区になっていました。

Chenonceau オフィシャルサイト

モンサンミシェル

いつかは行ってみたいと思いつつ長年実行できなかったモンサンミシェルに行くことに。パリを朝8時に車で出発。しかしパリから離れるにつれて天気が崩り坂。豪雨の中、主人が頑張って運転してくれました。これがノルマンディーの天気らしい・・・。

簡単にモンサンミシェルの歴史を説明すると:

モンサンミシェルと呼ばれるこの島は元はMont Tombe(モン・トンブ/墓の山)と呼ばれていたそうです。ケルト人が信仰する聖地だったのが、708年アヴランシュ司教オベールが大天使ミカエルから夢の中でお告げを受け、礼拝堂を作ったことからカトリックの聖地として信仰されるようになったそうです。

1979年にユネスコ世界遺産に登録。近年は島の周囲が砂州化し国家事業として、かつての島を取り戻す工事が進められています(2015年完成予定)。

おそらくフランス人よりも日本人のほうがよく歴史を知っているのではないのでしょうか。モンサンミシェルって日本人にものすごい人気ですよね。私達が訪れた時も、次から次と日本人観光客のグループが・・・。噂には聞いていましたが、こんなに多いとは知らずビックリしました。

細い路地を修道院を目指して登っていくのですが、人人人です。近くのガイドさんの話をちらっと耳にしたところ、この状態で少ない方だとか。天気があまり良くなく、ピークの時よりましだそうです。お土産屋さんに入ろうと思っても一苦労です。レストランなんて、まずここで食べようなんて計画していませんでしたし・・・。

フランスのニュースでやっていたのですが、モンサンミシェルの人気が下降気味なんだとか。人が多いのもその理由の一つなのですが、レストランやホテルの異常な料金の高さ(評判もいまいちのようで)。観光地ですからね、当然と言えば当然かもしれませんが。

そこで私達はモンサンミシェルへ行く前にPontorsonという町に寄ってランチをとってきました。

フランス人の間でも評判の良いle Grillonという小さなンホテルレストランです。地元の人がたくさん入っているレストランは安心ですね。座った席の後ろにある部屋で女性2人が休みなくクレープを焼いていました。ボリュームたっぷりで美味しかったですよ(満足)。シードルもお忘れなく。サービスも気さくで良かったです。


Le Grillon  37, rue Couesnon50170 PontorsonFrance

と、私達はここで腹ごしらえをして気合いを入れてモンサンミシェルへ向かいました。モンサンミシェルはすぐそこです。

モンサンミシェルの対岸に到着すると大きなパーキング。ここからまたバスに乗り島へと移動するのですが、予想通りバスを待つ人人人です。バスの中もものすごい混雑。そして島に着いたら着いたで、今度はとにかく階段を登っていかなければならない。出発前のエネルギー補給、かなり重要です!

でも苦労して頂上まで行けば、素晴らしい景色が待っていますよ。これからモンサンミシェルに出発される方、頑張ってくださいね。

モンサンミシェル観光協会

コティニャック(プロヴァンス)

Provence-Alpes-Côte d’Azur(プロヴァンスコートダジュール)地方にある小さな町Cotignacコティニャック
コートダジュールから少し離れて山の中に位置します。この周辺には小さな町が点在しドライブにも最適。

以前訪れたBesse(ベス)の町も近くにあります。

町に近づくと遠くの山に奇妙な岩肌が見えてきます。ちょっと車を降りて写真撮影。

ちょうどこの日は祝日で町の中はガラーンとしていましたが、それはそれで楽しめてよかったかな。

そしてお目当てのハチミツ屋さんへ。Figaroで紹介されていたお店です。町中のお店は閉まっていましたが、ハチミツ農場は開いていました(車で15分くらいのところにあります)。

Les ruchers du Bessillon ホームページ

1870―1890年代にかけて、コティニャック農家の息子Augustin Carmagnolleが野生のミツバチの群れを集め木の幹の中に収容し始めます。少しずつハチの数が増え、養蜂家が本職となっていきました。これがこのお店の起源。1890年からずっと代々家族で経営されているハチミツ屋さんなのです。

ホームページでもたくさん写真で見ることができますが、ものすごいハチミツの種類があります。お店で味見をさせてもらえるので好みの味を探してみてください。ラベンダー、タイム、ローズマリーなど様々。私達のお気に入りはラベンダーのクリーミィタイプ、アカシア、そしてmiel de montage。味が全く違います。お土産にいいですよ。

 

さて、静かーな町をとぼとぼ歩いて、先ほど遠くから見えた岩山へと近づいていきます。

見上げるとなんだか崖の至る所にぼこぼこと穴があいていて、よーく見ると建物がくっついているような埋め込まれているような・・・ここには古ーい歴史が存在します。

 

コティニャックの歴史

コティニャックの名前は古く1030年から確認されています。フランス言語学者 Albert Dauzatによると、その名前はgallo-romainガロ―ローマン人Cottiniusから来ていると考えられています。

中世封建時代初期には岩のてっぺんに二つの塔が立ちその下に村が作られていましたが、1033年になるとコティニャック城が存在していました。この城はBoniface de Castellane(Castelanne の最初の男爵)が所有。

12世紀に入ると、Saint-André de Villeneuve-lès-Avignon大修道院が教区を治めることになりますが、続いてPignansと呼ばれるコミューン(地方自治体)の教会へと移ります。

その後コティニャック領主の土地はプロヴァンス伯爵の領土となります。

コティニャックの主要な経済はオリーブオイルの生産にあり、歴史的には1660年にルイ14世が行ったNotre Dame de Grâce礼拝堂への巡礼の旅で有名。

階段を上って崖へとアクセスします。ここから見る町の景色もなかなかです。

切り立った崖に窓らしきものが点々と。不思議な光景です。

ドライブのポイントにちょっと立ち寄ってみてはどうでしょうか。

参考サイト:

Provence Web

Office de Tourisme de Cotignac

クリュニー中世美術館

ずっと以前から訪ねてみたいと思っていた美術館。いつもこの近くまで来ていたのですが、入り口が見つけられなかったのです・・・。

大きな通りbd Saint Michelにはショッピングやカフェなどたくさんの人でいつも込み合っていますが、そこでちょっと角を曲がるとひっそりと美術館の入り口がみつかります。ここにあったのかーと、少し感動。

もともとこの場所には1世紀頃ローマ時代の公共浴場があったそうで、その後ブルゴーニュ修道士の邸宅が建てられ、今の美術館へと変移していきます(1843年)。建物の外観がすでに中世の雰囲気を醸し出しています。

美術館は日曜日でしたがそれほど込んでいることもなくガラガラでもなく、スムーズに鑑賞できました。思ったより大きな美術館で見所もたくさんあります。

中世と言えばまず中世の騎士。鉄のヘルメットや剣が展示してあります。こんな重いものを持って振り回していたんですね。マルタ島に行った時にもいろんな形のヘルメットを見ることができましたが、奇妙な形のものはどんな機能があるんだろうといつも不思議に感じてしまいます。観察してみてください。

さて次に私の目にとまったものは、櫛(くし)です。なかなか可愛らしいデザインで現代でも通用しそうな一品です。どんな人が使ってたんでしょうね。想像が広がります。

そして、おしゃれなカップ(左)。足がついています。右の写真はよーく見てもらうと分かると思うのですが、樽の栓がついています。ワインが入っていたのでしょう。これもまたかなりおしゃれなアイディア品です。

中世というと古いイメージですが、とてもカラフルで凝ったものを作っていたんですね。

実用的なものも、現代と通じるものがあり感心しました。水筒やベルト。今とほとんど同じですよね。

こちらは子供用のおもちゃ。ままごとセットと言ったところでしょうか。とてもリアルに作られています。

中世の家のドアにはこんな豪華な鍵がついていたのでしょうか(左)?右は女性の手に注目。キャンドルがのせられるようになっており、これも素敵だと思いませんか。かなり感動したのですが。

書物などもたくさん展示してありますが、その中で見つけた、これは楽譜でしょうか。音符が見られます。とてもカラフルですよね。
見るもの見るもの興味深いものばかりです。

さあ、ここでこの中世美術館での必見作品をご紹介しましょう。

 

Christ des Rameaux

15世紀終わりに菩提樹で作られたキリストがエルサレムに入ろうとしている場面を表す作品です。新約聖書によると、イエスは若い雄のロバに乗りエルサレムに入り、群衆が歓呼して迎えたということです。このキリストの移動祝日を正教会では聖枝祭、カトリックでは枝の主日、プロテスタントでは棕櫚の主日と呼び、この祝い事は4世紀頃から行われていたそうです。ちなみにフランス語では le dimanche des Rameauxと呼ばれます。

最初はこのロバに乗ったキリストを山車の上にのせていただけでしたが、12世紀になりドイツ南部、スイス、あるいはアルザス地方で人々が車輪のついた板に固定する考えを得ます。そうすることによって町の中を引っ張って行進できるようになったのです。特に聖遺物でもなく奇跡的なパワーを持っているわけではないけれど、この新しい発想のおかげでこの彫刻が大変人々の間で人気を博したそうです。

しかしプロテスタントの宗教改革が起こり、カトリックの偶像崇拝を廃止しようとします。そしてたくさんの偶像が焼かれ破壊されてしまったのです。幸運にも難を逃れたものは納屋にしまい込まれ、長い年月をかけ、2005年にこのクリュニー美術館によって獲得されました。今でもドイツのいくつかの町ではこの車輪のついたキリスト像を引っ張って行進しているそうです。

 

La Dame à La Licorne- A Mon Seul Désir

さあ、こちらは有名な貴婦人と一角獣です。6枚のタペストリーから構成され、それぞれにテーマが備わっていいます。味覚、聴覚、視覚、嗅覚、触覚とよーく観察してみると人間の五感が現れてきます。15世紀終わりから16世紀始めに制作され、1841年に発見さました。1882年にこの中世博物館に収められることになりましたが、6枚のうち5枚が5感を表しているのだと気づかれたのは1921年になってからだそうです(イギリス人中世研究家による)。

では最後の6番目のタペストリーは何を表しているのか?

唯一この6枚目のみ題字が記してあります。

“A Mon Seul Désir”  私の唯一の願望へ

手にはネックレスを持っているが、それを箱に片付けているのか、身につけようとしているのか???

その答えは未だにはっきりとはしていないのですが、19世紀の初めに二人の歴史家BoudetとGlaezerがある仮定を提示しました。

彼らによると、これらの作品は五感による中世階級に沿っているのだと。つまり、物質的なもの/触覚、味覚からより精神的なもの/嗅覚、聴覚、視覚へと変化していく様だという。そして、その階級の行き着く先とは、もちろんl’esprit精神である。

貴婦人の手はおそらくネックレス(物質)をまさに放棄しようとしているところなのでしょう。精神という卓越した域に達するために。五感を超えた域です。

しかしながらあくまでも仮定に過ぎません。様々な研究家か様々な仮定をしています。例えば、ある者はそれは愛を示しているのだとか、ある者は精神とは全く逆の肉体的な欲望を表しているのではないかと。

貴婦人のそばに描かれている一角獣つまりユニコーンとは純潔さのシンボルであり、またその角は性的な暗示の働きをしているのだとか。

ちなみにこの美術館にはCorne de Licorneユニコーンの角という作品というかそのままの角が展示してあります。14世紀のフランス王国では一番貴重な宝として収められていたようです。しかし、ユニコーンとは・・・想像の生き物。実際はこの角はNarval(その名も日本名、一角 イッカク)の角だそうです。

 

Musée de Cluny-National Museum of the Middle Ages

6 place Paul-Painlevé 75005 Pairs
Métro 10番線 Cluny-la Sorbonne
Open: 9:00am-5:45pm 火曜休館

公式サイト

中世の歴史の好きな人にはかなり面白いミステリーがたくさん詰まった美術館です。

ここに載せた情報はd’Art d’Artといういろんな美術作品をまとめた本から翻訳してみました。フランス語のできる方、おすすめの一冊です!

グラナム遺跡(プロヴァンス)

夏のヴァカンスでプロヴァンス滞在中、どこかにドライブに行こうということになりました。まだ行ったことのない所に連れて行ってあげようと義理の両親が提案。グラナム遺跡と呼ばれる場所に出かけてきました。

遺跡を見る前にまずは歴史を整理しておきましょう!

 

紀元前のプロヴァンス地方の歴史

青銅器時代—鉄器時代(紀元前1200—紀元前500年)
ケルト人が中部ヨーロッパに広まる。ギリシャからの影響などを受け文化が発展。鉄製武器を身に付けヨーロッパ各地で活動。

紀元前600年頃
植民市マッサリア(マルセイユ)が古代ギリシャ船乗りのボカイア人によって築かれる。

紀元前300—200年
さらにマッサリアはポエニ戦争でローマ側につきカルタゴと戦う。

紀元前100
ゲルマン人に追われたケルト人(ガリア人またはゴール人)は西フランスとスペインに移動。のちローマのカエサルらによって征服される(カエサルのガリア戦記が有名)。地中海沿いの地域はアウグストゥスの時代にはガリア・ナルボネンシスという名前で呼ばれるようになる(もちろんこの地方にはギリシャ人も多く住んでいた)。ちなみにこのガリア人たちは中世にゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に同化していく。

 

このように、ヨーロッパは様々な民族が移動することによってそれぞれの国が少しずつ形成されていきます。プロヴァンス地方も同様に、ケルト人の一派ガリア人、ギリシャ人、ローマ人とさまざまな影響を受けているということをまずは理解しなければ、遺跡の面白さがつかめません。

 

それではグラナム遺跡に向かってみましょう。


まずは駐車場のすぐそばに立つ大きな遺跡が2つ。まず1つ目は凱旋門。


そしてこちら紀元前25年に建てられたという霊廟。皇帝アウグストゥスの二人の孫のための記念碑だそうです。
紀元前ですよ!

 

道を渡って反対側に移り少し歩くと遺跡への入り口があります。ここで入場券(大人7,50ユーロ)を買って中に進んでいきます。お土産物も売っているので見学の後にでも見てみるといいですね。入り口も出口も同じ所を通ります。

 


この地にケルト人が定住したのは紀元前7または8世紀頃と言われます。


ケルト神Glanとお供の女神が病回復に効果のあるという水源近くに住み始めたことが、このグラナムの起源となっています。この水源の噂は広まり、その水を求めてたくさんの巡礼者がこの集落を訪れました。


写真にある石の台は、身体障害者のために作られたものです。体が不自由で階段を降りられない人はこの台に寝転がり、ありがたい水を体にかけてもらったそうです。


そしてその効果を得られた裕福な者は右の写真のようにお礼の石碑を建てました。さらに裕福な者(この地域を支配する者)は水源のそばに神殿を建てました(左写真)。


集落で何かを決定する際に使われた広場。ここで決めごとの賛成反対を多数決で決めたそうです。手に石の玉をを持って中央にある石つぼの中にそっと入れて取り決めたそうです。


こちら集落に存在した肉屋さん(左)とオリーブ油のお店(右)の跡です。当時は冷蔵庫もなく、お肉の腐敗も早かったそうです(当たり前ですが)。お肉はお祭り事などの際に食されていました。このレ・ボー・ド・プロヴァンスにはオリーブの木が一帯に広がっていますが、昔からオリーブオイルはあったんですね。なるほどーとうなずきながらガイドさんの話に聞き入っていました。


共同浴場跡。左手には水が溜めてあり(プール)、右手には3つの部屋が設けられていました。一つ目は暑い部屋、二つ目は暖かい部屋、次が冷たい部屋。まずは体にオリーブオイルをかけ、建物の前にある広場で体を鍛えるためのトレーニングをします。すると体は砂だらけになりますね。その状態で暖かく保たれている部屋に入り、オイルと砂と一緒にむだ毛の処理をしてもらい、強いマッサージを受けます。次に暑い部屋に入って汗をかき、さらに暖かい部屋で軽いマッサージを受けます。仕上げは再度暑い部屋で汗をかいた後に冷たい部屋に入る。夏の時期などはその代わりにプールに入ったようです。

と、ガイドさんが一般的な共同浴場の利用の仕方を説明してくれました。


さてこちらの壁は三段階構成になっています。一番元になっているのがガリア人作、その上にギリシャ人、ローマ人と手法が変わっているのが分かります。


最後は、比較的裕福な家の 遺跡です。家の中央には水が溜めてあり、太陽の光が反射して家の中が明るくなるように工夫してあったようです。この周りにいくつかの部屋が囲むように並んでいるのが特徴的です。このように水が豊富にあるため、集落の外まで出かけなくても家でトイレができたそうです。家の一角には奴隷たちの部屋もありました。奴隷と行っても、家族の一員のようなものです。昔の人の知恵はすばらしい!

他にもたくさん興味深い遺跡が保存されています。フランス語ができればガイドさんが詳しく説明してくれます。何人かのガイドさんがいるようでしたが、私たちのあたったガイドさんはなかなか説明がうまく、図などを使って面白く話してくれました。

 

所在地

Site archéologique de Glanum
Route des Baux-de-Provence
13210 Saint-Rémy-de-provence

 

夏に訪れる際には帽子をお忘れなく。日陰がないため、かなり暑いです! 近くには レ・ボー・ド・プロヴァンスもあるので寄ってみてはどうでしょうか。