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アンドレ・シトロエン公園

パリは15区、メトロ10番線のJavel-A.Citroen(ジャヴェル)から歩いてすぐのところに、Parc Andre Citroen(アンドレ・シトロエン公園)があります。

このアンドレ・シトロエンとは人物名で、正式にはアンドレ=ギュスターヴ・シトロエン(André-Gustave Citroën)と言い、オランダ系フランス人で、フランスの自動車会社、シトロエンを設立した人物として有名です。もともとは、ユダヤ系オランダ人のダ イアモンド商レーヴィ・シトルーン (Levie Citroen)と、ポーランドはワルシャワ出身マズラ・クラインマン (Mazra Kleinmann)の5人目に生まれ、オランダアムステルダムからパリへと1873年に家族で移ってきました。

第一次世界大戦中、アンドレ・シトロエンは武器などの流れ作業方式で大量生産に成功し、その利益で1919年パリのセーヌ川、ジャベル 河岸にシトロエン自動車会社を興します。そして現在その場所にあるのがこのアンドレ・シトロエン公園というわけです。

またおもしろい話として、1925年から1936年までの11年間エッフェル塔は、広告宣伝のため、このCITROENという文字で飾られていました。そして1927年にアメリカから飛行機で大西洋横断してきたチャールズ・リンドバーグが、パリの上空でまず見たのがこのエッフェル塔の電飾文字であったと言われています。彼の言葉に「翼よあれがパリの光だ」というのが残っています。

citroen logoシトロエンのロゴは2つの楔形。これはアンドレ・シトロエンが ビジネスを始めるきっかけとなった歯車シェブロン・ギアの歯形をモチーフにしたものです。  (以上参考Wikipedia)

では、実際アンドレ・シトロエン公園の様子をご紹介しましょう。ジャベル駅を出て数分歩くと、そこには木々と水、そしてモダンなビルによって囲まれたスぺースが広がります。


公園中央には気球があり、実際に乗ることができます。公園内にチケット売り場があり、10分10ユーロだそうです。うちのバルコニーからもいつもこの気球を眺めています。


夏にはこんな風に噴水が人々を癒してくれます。


そしてこれが夏、人が集まってきた時の様子。噴水にはもちろん、その辺に寝そべっている人たちも水着です。たまに目のやり場に困る時も…公園なのか、ビーチなのか…。


普段は、ジョギングをする人、散歩する人、ピクニックする人。


またこの公園のユニークなところは本当に人の目を楽しませてくれるような設計のされ方です。ただ歩いているだけでいろんな公園に行ったような気分になる。


私は高所恐怖症なので乗ったことはありませんが、きっと眺めは最高なんでしょう。


公園端にある通路の階段を登るとちょっとした展望スぺースがあり、ここからエッフェル塔の先が見えます。アンドレ・シトロエンさんもここからエッフェル塔を眺めていたのかしら。

夏には、この公園のセーヌ川沿いによく音楽ステージを見かけます。きっと多くの人々が涼みにやってくるのでしょう。そしてすぐそばにはRERの駅、Bd Victorもあります。モダンなビルとこの公園の緑がなんともいえない調和をとっています。

鷲の巣村エズ(プロヴァンス)

以前から行ってみたいと思っていたコートダジュールにある村Eze(エズ)に2008年お正月に出かけることになりました。

エズはどこ?
エズはニースとモナコの間にある岩山に立つ村です。


エズで買ったポストカード
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エズ村は、鷲の巣のように岩山の上に位置し、その姿から nid d’aigle 鷲の巣(のような)村とも呼ばれます。岩山の高さは海抜427m。そのため、岩山の頂上に立つこのエズ村と教会( 1764年に建てられたNotre Dame de l’Assomption)が遠くからも眺めることができます。


エズ村の地図
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エズの歴史
エズはローマ時代に栄え、中世になるとGenoa(ゼノア)とモナコのもとに組み込まれます。1861年にフランスの領土になるまでは、イタリアのthe Kingdom of Sardinia(サルディニア王国)の一部で、当時はイタリア名Eza(エザ)と呼ばれていました。現在もイタリアの文化は色濃く残っており、車の標識などもイタリア語が付け加えられていたり、フランス語の他イタリア語も話す人たちがいます。 イタリアとは目と鼻の先ですしね。

また教会の中にあるエジプトの十字架はこの村のルーツを示しています。時代はPhoenicians(フェニキア人)にさかのぼります。彼らはそこに女神Isis(イシス)を祭るために寺院を建立したのです。

この村のモットーは”Isis Moriendo Renascor” 、「死の中で私は再び生まれる」。そしてその象徴は骨の上にとまるフェニックス(不死鳥)。


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この地域の方言はほとんど消滅してしまっていますが、モナコ公国のthe Monegasque language(モネガスク語)に近いと言われ、またthe Ligurian language(リギュリアン語)にも関係があり、 the Occitan language(オキシタン語)からの影響も受けているそうです。

エズの観光
エズ村は岩山から見下ろす地中海の絶景で有名です。

村で一番古い建物はthe Chapelle de la Sainte Croix(サントクロ ワチャペル)で1306年にまでさかのぼります。疫病犠牲者を助けるためにエズの修道会によってそこで会議が行なわれました。ベルの小塔の形はかつてこの 村がGenoa(ゼノア)王国のものであったことを示します。

またこんな噴水も村の中で見つけました。

1930年に作られた村唯一の噴水で、村の住人が初めて得た流れる水でもありました。それまで、エズ村の水は村のふもとから運ばれ、エ ズ人は村中に設置されていたタンクの水に頼っていました。

また村の中には、たくさんのお土産屋さん、アートギャラリー、ホテル、レストランが並び、多くの観光客や新婚旅行客などを魅了していま す。その結果村は美術館村のように化してしまい、実際にこの村に住む地元の人はほとんどいないそうです。


村の中には、所狭しといろんなお店が詰まっています。


左はオリーブの木で作られた置物や料理用具など。
右はバス停のすぐそばにあったカフェで食べたラヴィオリ・ニソワソース!

Fragonard(フラゴナール)のお店もここにアウトレットを持っています。香水のお好きな方 は立ち寄ってみてはどうでしょう。Fragonard ホームページ


お土産に私も一つ。

また村の一番の高台に熱帯植物園があり、そこからの景色も有名みたいです。私たちの訪れたシーズン(年末年始)は閉まっていました。観 光局サイトで詳細はチェックしてみて下さい。

夜のエズ村
エズ村を訪れるなら夜の景色が最高!昼間に来て青い地中海を眺めるのもいいですが、村の中を歩くのならば夜がいいですね。下の写真は2007年12月30 日。人も少なく、雰囲気もとてもよかったです。昼間訪れた時には、観光客でいっぱいで写真もなかなかうまく撮れませんでした。年末でもお店は開いてました。カフェもあったし、カジノ(スーパー)も開いてましたよ。


クリスマスデコレーションの残るエズ村入り口。ぼんやりと照らすランプの光がとてもいい雰囲気を出してくれます。


細い石畳の路地は迷路のようで、次にどんな景色が現れるのかと期待がふくらみます。


右の写真は、有名なホテルChateau de La Chevre d’Or(シェーブルドール)

エズのホテル/レストラン
エズにある有名なホテル/レストラン。フランスだけでなく世界的に有名なホテルが存在します。エズといえばこの2強ホテルですね。


Chateau de La Chevre d’Or(シェーブルドール)
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Chateau Eza(シャトーエザ)
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右はシャトーエザのレセプション横にあるBAGAGISTE!?荷物を運んでくれるのでしょうか。

この2つのホテルが4つ星トップホテル。予算も結構なものです。レストランで食事だけでもOKなので、私たちはシャトーエザでディナー を満喫してきました。地中海を望むテラスにレストランはあり、遠くにニースの夜景も見えました。周りのお客さんはリッチそうな人ばかりで、私たちはジーン ズ…。予約も前日に…。12月31日はもう予約でいっぱいでしたが、それまでならば意外とシーズンオフで簡単に予約が取れるかもしれませんね。私 たちが選んだコースは、Degustationコース(いろんな料理を少しの量で一通り味わえるコース)、105€。dessert(デザート)の前にpre-dessert(デザート前のデザート)が存在するなんて知りませんでした。もちろんpost-dessert(お勘定待ちの間のお菓子)も。そう呼ぶのかどうかは知りませんが。

私たちが泊まったホテルは、


Hotel Restaurant Eze Hermitage
ホームページ

エズ村からさらに山を登っていったところにあります。ちょっと離れています。SNCF(鉄道)でEze駅で降りたら、駅の目の前にある バス停で83番に乗ります。後は終点 Plateau de la Justice まで(約20分くらい)。途中エズ村でも停車するバスです。一時間に一本くらいしか走っていない路線なので不便ですが、有効に活用するといいですね。こちらのホテルも3つ星でレストランの評判も高いそうです。かわいらしいホテルで、お正月ともあって、地中海の町を紹介するDVDをプレゼントでもらいまし た。

ハイキング
Eze Hermitageホテルは、エズ村から少し離れている点がマイナスですが、プラスの点は周りにハイキングコースがあって、そこからの眺めが素晴らしい!! エズ村よりももっと高いところにあるので、地中海のパノラマが見 れます。足に自信のある方は是非。


Mon Bastide(バスティドゥ山 570m)。
一つ目のハイキングコース。
頂上から見た地中海の眺めは、エズ村で見たものよりもはるかに壮大。登った印に石が積んであったので私も積んでおきました。そこに行かれたら探してみて下さい。

頂上は崖のようになっているので、くれぐれも注意を。下に見える家々の屋根が太陽に照らされ光って見えます。上にあるエズ村の写真も実はこの山から。村が見下ろせます。これが年末年始のコートダジュールの景色です!!!


もう一つのハイキングコーすからは、サン・ジャン・カップ・フェラ半島、お金持ちの別荘地、さらに向こうにニースの町が。


そして北を眺めると、遠くに雪を覆ったアルプスが!!!そして右の写真が地中海から登る初日の出です。泊まったホテルのバルコニーからも見えました。

エズへの行き方
ニースとモナコの中間に位置し、車で途中立ち寄るような人も結構多そうでした。私たちはマルセイユからまずカンヌまでTGV、そこからローカル線を使ってエズまで(駅名はEze Bord de la Mer)。ニースからでも可能です。

エズ駅出口には、小さな観光デスクが設けてあり、そこでバスの時刻など詳しく聞くことができます(注:年末年始は閉まっていました)。 バスは一時間に一本程度(1ユーロ30サンチーム)、83番に乗るとエズ村(Eze Village)、Eze Hermitageホテルに行くことができます。気長に待ちましょう。ハイキングコースもあって歩 いてエズ村までいけるそうですが、かなりきつい坂で、一時間半ほどかかるそうです(ニーチェの道)。タクシーも電話番号が書いてあるので利用可能です(エ ズ村まで確か30ユーロ/冬のヴァカンス期はお休みだそうです)。

ちなみにニースからもバスが出ています。こちらは82番。こちらの路線もエズ村(Eze Village)、Eze Hermitageホテルに行くことができるので便利です。

またエズ村駐車場付近は道が3方向に分かれており、バス停の行き先に気をつけてください。

バス情報
Ligne d’azur ホームページ

エズ観光局 ホー ムページ

こうして2008年、小さな鷲の巣村エズでよいスタートがきれました。また今度はドライブで行ってみたいなあと思います。

ランス(シャンパーニュ)

パリの東駅からブドウ畑の広がる景色を外に1時間半、シャンパーニュ地方の中心ランスへと着きます。今回はたまたま主人が平日に休みがとれ、急きょ日帰りトリップを計画。平日ということで、一人40ユーロの往復切符が20ユーロに!二人で一人分の料金です。

ランスの歴史

・498年にフランク王国のクロヴィスが洗礼を受けてから、シャルル10世まで歴代フランス王が25人もここで戴冠式を行いました。

・第二次世界大戦では一時ドイツに占領され大きな被害を受けました。

・1991年にユネスコ世界遺産に フランス三大聖堂の一つノートルダムが認定。このノートルダムでは過去シャルル7世の戴冠式が行われ、ジャンヌ・ダルクもその式に列席したことで有名です。13世紀のゴシック建築。

ランスの世界遺産

Notre-Dame Cathedral
ノートルダム大聖堂
オープン:7:30am~7:30pm
ツーリストインフォーメーションもここにあるのでまずは地図をもらいましょう。

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ランスの駅から歩いて10分くらい、町の中心に壮大な聖堂が姿を現します。
ドイツ軍に破壊されたという歴史を持ちますが、そんなことを全く感じさせない雄大さです。

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ゴシック彫刻。近くから見ると本当に一つ一つの作品がとても細かいんです。

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空にそびえ立つ塔の中。何百年前にどうやってこんな建物が建てることができたんだろうと。
右は聖堂内で見つけたからくり時計。

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礼拝用の椅子。床につくほど低い高さなのが分かるでしょうか。

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左はシャガールがデザインしたステンドグラス。
オリジナルは第一次世界大戦で壊されてしまいました。

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右の石板に描かれた絵には、王がノートルダムを手に抱えています。

Tau Palace
トー宮殿
5月~9月 9:30am~6:30pm
9月~5 月 9:30~12:30 2:00pm~5:30pm
休館:月曜、1月1日、5月1日、11月1日・11日、12月25日
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ノートルダムの裏へとまわると小さな庭にこのトー宮殿がたっています。
写真はそこから見たノートルダムです。
この宮殿には戴冠式で使われた宝物や修復前の大聖堂の彫刻などの展示がされています。

Saint-Remi Basilica
サン・レミ聖堂
オープン:8:00am~7:00pm

Museum of the Former Jesuits College
サン・レミ修道院博物館
改築のため閉館(2006年11月現在)

ランスの街中

mainstreet

lunch
駅前通り(広場)Pl.Drouet d’Erlonはレストラン通りになっており、この日もまたシュクートをランチに。
これで2人分(一人分15ユーロなり)。実際食べてみた感想は4人分でした。チャレンジしてみてください。
やっぱり北に来るとソーセージやハムがおいしいなあ。

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reims
腹ごしらえをした後は、消化のために歩きました。
街中は中世を思い出させるよな雰囲気です。

wine shop

wine shop
そしてランスと言えばシャンパン。あちこちにシャンパン見学工場が。

arch
そして駅前には散歩道が通っていて、そこで発見したのがこちら。
Port Mars マルスの門。 3世紀に作られたというローマ時代の遺跡です。

そこからさらに東にRue du Champ de Mars通りを歩いていくとシャンパン工場、G.H.MUMMがあります。
ひっそりとした通りに、お屋敷のようなオフィスと向かいに工場。

wine shop

wine shop
G.H.MUMM 34、rue du champ de mars
オープン:5月1日~10月31日 毎日
9:00am~10:50pm 2:00am~4:40pm
シーズンオフの場合は予約要
サイトチェック

そしてそのお隣にひっそり佇む小さなチャペル。
CHAPELLE FOUJITA
チャペル フジタ

foujita chapel

foujita chapel
33, rue du champ de mars
オープン:5月2日~10月31日
2:00mp~6:00pm
休館:水曜日、7月14日

藤田嗣治は1930年代にパリに渡り、第二次世界大戦直前に日本に帰国。しかしそこで、戦争中に描かさ れた絵の戦争責任を問われることに。戦争犯罪を負わされ、再び母国を離れフランスへと。そこで知り合ったのがMUMMの経営者ルネ・ラルー。そして彼はまたフジタの洗礼親でもありました。レオナール・フジタとしての新しい出発です。

1966年、レオナール・フジタは、そのお礼として、このMUMMの工場の隣にフレスコ画を描きました。彼の傑作は絵のみにおさまらず、このチャペルの建物、彫刻、そしてステンドグラスにいたるまで全てをデザインしました。彼が80歳の時でした。そして 2年後、1968年スイスにて癌で亡くなります。彼の遺体はこのチャペルの床下に眠っているそうです。

ここへ来るまで、このレオナール・フジタという名前を聞いたことがありませんでした。実際チャペルを眺めて、そんな時代にこんなところで日本人が一生を送っていたんだと考えるとなんとも言えない気持ちになってしまいました。どんな気持ちで日本を離れて行っ たのだろうと思うと、とても切なくなります。戦争を二度と起こしてはいけません。

今回は11月ともあって、中に入れませんでしたがまた訪れたいと思っています。

ランスのお土産

wine

wine
ランスと言えばシャンパン。

ノートルダム大聖堂前にあるワインショップでお薦めを聞いて3本購入。

Philippe Gonet 2000 サイトチェック 35ユーロ。2000年に 採れた最高のブドウだけでできているという。
ドンペリに匹敵するくらいの質だそうです。これが日本に行ったらものすごい値段になるんだろうなあと。

他の2本はGonetPaul Dethune大体20ユーロくらい。
シャンパンの地元なのでお手ごろな価格で購入できます。

またシャンパンのアペリティフもいろいろ。

FOSSIER
サイトチェック

sanck
シャンパンサブレ。

snack
ランス名産、ローズビスケット。シャンパンに浸して食べるんだとか。

snack
お塩ビスケット。

急に計画した旅ではありましたが、かなり楽しめた一日でした。世界遺産を見て、歴史を知り、シャンパンをリーゾナブルに楽しみ、おいしいものも食べられます。

ちょっと感じたのは、北に行けば行くほど、笑顔があまり見られないことかな。主人いわく典型的な北だと。挨拶しても、返事が返ってこなかったり、席を譲ってもメルシーともなんとも言わない。寒いしそんな笑ってられないわよねと思うようにしました。

でもいい所でしたよ。機会 があったら訪れてみて下さい。

ランス観光局

リュクサンブール宮殿と公園

[リュクサンブール宮殿]
美しい庭園に囲まれたリュクサンブール宮殿は、パリ6区、ショッピングで人気のサン・ジェルマン・デ・プレ地区の近くにあります。

もともとは、リュクサンブール公爵のために設計された邸宅でしたが、イタリアからフランス王室に嫁いできた王妃マリー・ド・メディシスのために、彼女の生まれ故郷であるフィレンツェのピッテイ宮殿を模して居城として改築されました。またニコラ・プッサンとフィリップ・ド・シャンパーニュにより内装が手がけられました。

マリー・ド・メディシスがフランスを追放された後は、彼女の孫モンパシエ公爵夫人、プロヴァンス伯爵(後のルイ18世)などが住み、そ して、ナポレオン・ボナパルトが権力を掴んだ歴史的な舞台ともなりました。

また庭園内には、自由の女神像の原型が設置されてます。ちなみに、フランスがアメリカに自由の女神を送ったお礼に、パリに住むアメリカ 人達がフランス革命100年を記念してセーヌ川のグルネル橋に自由の女神を建てました(セーヌ川参考)。

マリー・ド・メディシスの生涯とは
イタリアはフィレンツェの名門メディチ家に生まれ、1600年、27歳の時に、マルグリット・ド・ヴァロワと離婚したばかりのフランス王アンリ4世への元へと嫁いでいきます。この結婚はフランスの財政建て直しのための政略結婚で、アンリ4世はマリーの結婚持参金を目当てにしていました。アンリ4世は女好きでも有名で、生涯で50人もの愛人がいたとも言われています。結婚当初フランス語の話せなかったマリーにとって王宮の暮らしは孤独であり、またそれを紛らすかのように彼女は毎日のように宝石などを購入し浪費に明け暮れていました。

1601年、王太子ルイ13世を出産。彼女の立場が一気に注目を浴びます。アンリ4世もこれを機に放蕩を自重し、マリーを手厚く扱うようになります。しかし、1610年5月14日アンリ4世はパリでフランソワ・ラバイヤックという精神異常者に刺し殺されてしまいます。そしてマリーは後を継いだ息子ルイ13世の摂政としてフランスの重要な責任を負うことになっていきます。

彼女の政策は、アンリ4世時代の宰相を罷免し、イタリアのアンクル元帥という人物を補佐官として重用。フランス国民を思いやったアンリ4世の方針を破棄し、次第に有力貴族達(息子ルイ13世も含め)の不満が高まっていきます。

marie
「マリーのマルセイユ到着」
ルーヴェンス作
(ルーヴル美術館)

不利な立場へと徐々に追い込まれていったマリーは、有能なリシュリュー枢機卿を登用して何とか形勢を立て直そうとします。しかし息子ルイ13世は、母マリーをブロワ城に幽閉し、リシュリューを自分の補佐官として見方につけてしまいます。1619年、マリーはブロワ城を脱出し、ルイ13世 の弟オルレアン公ガストンと共に反乱軍を起こしますが、これもすぐに鎮圧されてしまい、その後リシュリューの仲介でマリーとルイ13世は和解し、1621 年まで王立議会の一員として政治に関わっていくことになります。

リシュリューがルイ13世の宰相となり政治の実権をつかむと、マリーはリシュリューの失脚を目論見ます。しかしこの時もリシュリューのほうが上で、1613年マリーはフランスを追放、そしてブリュッセルへと亡命します。

アンリ4世とは
ブルボン朝初代のフランス王で、在位中から現在に至るまでフランス国民の間で人気のある王の一人で大アンリ良王アンリと呼ばれます。

プロテスタント派のアンリ4世は、1572年のパリで起きた「サン・バルテルミの虐殺」(カトリック派によるプロテスタント派虐殺事件)の後、宮廷に幽閉されカトリックに強制的に改宗させられてしまいます。宮廷から逃走するとプロテスタントに一時また戻りますが、王位を継承した後にさ らにカトリックへと改宗を発表。これによりカトリックが優勢なフランス国民の広い支持を受けることになります。1594年にシャルトル大聖堂で正式に戴冠 式が行なわれ(シャルトル大聖堂参考)、1598年ナント勅令ではカトリックをフランスの国家的宗教であると宣言しつつも、プロテスタントにカトリックと同等の権利を与えることを認めてい ます。

一方、アンリ4世と妻マルグリット・ド・ヴァロワとは長く別居状態で、子どももいませんでした。そして迎えられたのがメディチ家のマ リー・ド・メディシスでした。2人の間には6人の子どもが生まれています。

大きな業績としては、セーヌ川のポンヌフ橋を中心とした首都パリの再開発計画や、パレ・ロワイヤルやルーブル宮殿の大ギャラリーを建造しました。また北アメリカにサミュエル・ド・シャンプランを探検に派遣させ、これがのちにカナダにフランス植民地が置かれる基礎となっていきます。

そして1610年パリで暗殺された後、遺体はサン・ドニ大聖堂に埋葬されました。その後フランスはルイ13世、14世と絶対王政時代へと進んでいくことになります。

参考:ウィキペディア

[リュクサンブール庭園]

宮殿に付属する広大なルネサンス様式の庭には、90近い彫刻や噴水、花壇などが配置されています。ジョギングする人、本を読む人、日光 浴をする人、人それぞれに公園で過ごしています。


メディシスの噴水。マリー・ド・メディシスの命令により作られました。ここで故郷のイタリアを思ったのでしょうか。


広大な敷地内には花壇が置かれ、花に混ざって野菜が植えられていたり…


木陰で横になったりランチをしたり。宮殿の正面ではミニチュアヨット遊び。

art
また敷地内にはたくさんの彫刻も。ライオンの彫刻と宮殿(左)。そして右の写真は肩の凝りそうな彫刻作品。


そしてこちらモンパルナスタワーをバックにポーズ。

また、今回訪れた時には、庭園内に変わったオブジェがあちこちに置かれていて興味をそそられました。こうした企画はよく行なわれているそうなので運がいいとちょっとした美術館めぐりができますね。


作品を一つ一つ見て歩いてみましょう。


こちらは作品に取り組む男性。木の中に女性が埋め込まれたような作品に仕上がっています。


大粒の雨粒?そして今にも歩き出しそうなオブジェ。


こちらは庭園内にある彫刻をアレンジした作品。庭園内が不思議な空間に。


そしてこちらおもしろいものを発見。コインを入れると体重が計れます。
なぜこんなものが…。ジョギング後にでも計るのかな。

公園を歩いていると、その美しい景色に目がとらわれてしまいますが、ちょっとベンチに座って400年前に起 こっていた出来事を思い出してみましょう。違った景色が見えてくるかもしれませんよ。いろんな人々が歴史上にいて、現在の姿があるんですよね。そして現代 に生きる私達が未来の人々にどんなものを残してあげられるのでしょうか。

パリ16区アールヌーボー建築巡り III

パリ16区アールヌー ボー建築巡り I パ リ16区アールヌーボー建築巡り IIに続く第3弾ぺージ。今回はメトロ9番線JasminジャズマンをAuteuilオートイーユへ向かって歩 きます(オートイーユからジャズマンでもいいのですが)。第1弾で紹介したエリアとすぐ近くです。

今回の散策エリアは、

(地域:パリ16区 メトロ9番線 Jasminジャズマン ~ Auteuilオートイーユ

メトロでJasminジャズマンへ行き、そこから歩いてほんの10分足らずの地域にアールヌーボー建築がいくつか点在しています。いつ も通ってるのになあ、今回もまたそう思いながら歩いていました。

Hotel Particulier 3 square Jasmin (1922)
静かな通りに隠れるかのように、周りとは明らかに異なる目を引く建物が。細部にまで細かく装飾がされています。

Immeuble Guimard 18, rue Henri-Heine (1926)
こちらもおもしろいデザインです。でも、この3つの窓がワンセットになっているのはギマールの特徴ですね。

Villa Flore 120 Avenue Mozard (1924)
テトリスのようなデザインです。

Hotel Guimard 122, Avenue Mozard (1913)
ギマール邸。左下の写真が正面、そして右下の写真が側面から撮った写真です。この家の中がどうなっているのか、興味をそそられます。

地上階はギマールの設計スタジオ、上の階は画家であったギマール夫人のアトリエ、そしてその間の階が居住空間だったそうです。

迫力のある門構え。なんだか飲み込まれそうな感じがします。

Immeuble de graconnieres 36, rue Greuze (1927)
こちらは、ちょっと離れてしまいますが、メトロJasminから2つ行ったRue de la Pompe(ルー・ドゥ・ラ・ポンプ)にある建物です。

Immeuble de rapport 38, rue Greuze (1928)
そしてそのお隣の建物もつづいています。

3回に分けてお届けしたアールヌーボー散策。16区の静かな街中を散歩してパリの雰囲気を味わってみるのも良いのではないでしょうか。 カフェでお茶して休みながらでも。