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パリ16区アールヌーボー建築巡り II

パリ16区アールヌー ボー建築巡り I に続く第2弾ぺージです。今度はエリアを変えて、ギマール建築を追ってみましょう。まだまだ不思議な建物がここ16区には隠れています。目を凝らして歩いてみましょう。

今回の散策エリアは、

(地域:パリ16区 メトロ9番線 Auteuilオートイーユ ~ Chardon Lagacheシャルドン・ラガシュ

この辺りは私も毎日のように通っている地域で、以前から変わった建物だなあと思っていました。歴史を知ってやっとすっきりした気分で す。


Hotel Delfau 1er, rue Molitor (1894)
メトロChardon Lagacheシャルドン・ラガシュを降りてすぐのところにあります。通りから少し奥まったところにあり、知らないと、そのまま通り過ぎてしまいそう。


Villa Jassede 41, rue Chardon Lagache (1893)
こちらが、いつも不思議だなあと思っていた建物です。この窓の並びといい、デザインといい、不思議です。


Projet d’immeuble de rapport 147, avenue de Versailles (1910)
空に突き出すような屋上の屋根が特徴的。でもこの辺り犬の糞がすごいんですよね。悲しいことに。


Atelier Carpeaux 39, Bl Exelmans (1894)
Jean-Baptiste Carpeauxという彫刻家のアトリエ。彼の死後に建物が何人かに手直しされ、その中の一人がギマールでした。


Hotel Rosze(左)  34, rue Boileau(1891)
メインの通りから少し離れ裏通りのような場所にあります。4月頃になると写真のように藤の花で満開。そのお隣にある大使館(写真右)の建物もデザインが凝っています。

パリ16区アールヌーボー建築巡り III へ続く。

パリ16区アールヌーボー建築巡り I

先日ある英字雑誌でパリ16区を特集とする記事を見つけました。なにやら読んでいると、うちの近所に面白い建築物があるという。普段何も周りの建物 のことなど気にせずに歩いているたので、そのことを知ってちょっと興味をそそられました。そんな建物あったかなあと。

ちょっとその記事をここで訳してご紹介しながら、私の撮ってきた写真を付け加えていきます。このぺージでご紹介する建物が見られるエリアは、

(地域:パリ16区 メトロ9番線 Auteuilオートイーユ ~ Maison de Radio-France フランス・ラジオ協会)

20世紀初頭の建築

1960-70年代まで、ブルジョワエレガンスがここパリ16区に住む人々の特徴でしたが、今日では少しそのファッションも薄れ、パリで一番お洒落で高級なエリアではなくなってしまいました。しかし、20世紀初頭の建築という視点から言うと一番美しい場所の一つに数えられます。中でも Auteuilオートイーユからラジオフランスにかけブルジョワの町並みのような地域が佇んでいます。

1985年、パリメトロ(地下鉄)エントランスのデザインで有名なHector Guimard ヘクトー・ギマールは、Art Nouveauアールヌーヴォーのファンタジーを 巨大なアパート建築に取り入れました。その代表作が①Castle Beranger(1898年/14, rue La Fontaine)です。さまざまな色の材料(レンガ、セラミック、ステンドグラスの窓、ガラス細工)、いろんな形の窓、そしてとりわけ鉄製細工を使用。 またstyle nouille スパゲッティスタイルen coup de fouet 飛び上がるホイップデザインが特徴的です。


①Castle Beranger
この特徴的なスパッゲティの門(本当はタツノオトシゴ)。ギマール設計の低家賃住宅で、画家ポール・シニャックも住んでいたという。なんて贅沢な住宅なんでしょう。静かな住宅街の中でひときわ目を引きます。


デコレーションも凝っていてそこらじゅうにタツノオトシゴのモチーフがみられます。こんなところにも、あんなところにも。

1902年、新しい法律によりパリの建築家達がより自由にアパートをデザインできるようになりました。活気づくような建物の正面、丸く カーヴのかかった入り江窓、ビル屋上の装飾。建物は女性のファッションとともに贅沢なものとなっていきました。ギマールはそのような中で、②Hotel Mezzara(1911年/ 60, rue La Fontaine)と ③Immeuble Tremoi(1910 年/ 11, rue Francois-Millet)と呼ばれるアパート建築において比較的自分のありのままのスタイルを保ちました。花や植物のモチーフで彫刻の施された正面は、1907年/85, rue La Fontaine と1911年 /9, Rue du Pere-Brottierの建物に現れています。1907年/15, avenue Perrichonにある建物はレンガの上のセラミックにオーガニックモチーフがあしらわれており、美しい鉄製細工(en coup de fouet飛び上がるホイップデザインの始まり)が見受けられます。


②Hotel Mezzara
静かな通りを歩いていると、普通のアパートとアパートの間にこんな奇妙な形の建物が現れてきます。現在は高校の所有物として保存されているそうです。


③Immeuble Tremoi
この辺り一帯はギマール設計でいっぱいです。


1907年/85, rue La Fontaine


花々で飾れた豪華な門。


こちらがホイップデザイン。かわいらしいですよね。


Ensemble Immobilier 17,19,21 rue La Fontaine / rue Agar (1912)
ギマール設計の集合アパート。不思議な一角です。

世界大戦へとつながる1920年が近づくと、美的感覚は変化を迎えます。スパゲッティスタイルはさらに控えめな近代スタイルと移り変 わっていきます。この頃から、まっすぐなライン、平らな平面、そして幾何学模様などが、それまでの丸くスムーズな形に取って代わります。この簡単な装飾を 活気づけるために、建築家達はArt Decoアールデコとして知られる運動とともに新しい建築材料やグラフィック 装飾を加えていきます。⑦モザイクドア(1927年/39, rue Gros)は黒い御影石の上にその模様が映えています。また⑧砂石タイル(1935年/2, rue Degas)がモザイクのように扱われています。


⑥モザイクドア


⑦砂石タイル

1935年以降の控えめでエレガントな建物(22, rue Nungesser-et-Coli)は白いコンクリート、幾何学模様の入り江窓でシンプルに飾られています。その一年後に建てられた隣の建物(24, rue Nungesser-et-Coli)とのコントラスも面白い。こちらは、全体の正面がガラスでできています。Le Corbusierの作品です。彼は建築スタイルにさらに新たな変化を生み出し、それはModernismモダニズムと して後発展していきます。 (参考文献 The Paris Times : 訳Aki )

パリ16区アールヌーボー建築巡り II へ続く。

ヴァンセンヌ城

ヴァンセンヌ城への行き方
パリの南東に位置し、ヴァンセンヌの森のちょうど入り口に当たります。パリ、メトロ1番線の東のターミナル、Chateau de Vincennes(シャトー ドゥ ヴァンセンヌ)。城内見学7.50ユーロ。

ヴァンセンヌ城の歴史
ヴァンセンヌ城は14世紀から17世紀にわたるフランス王の城。

他の多くの有名な城と同じく、もとは狩猟用に使うロッジとして1150年ルイ7世のために建てられました。13世紀にはフィリップ・オ ウギュストとルイ9世がさらに実質的な荘園へと築き上げていきます。またルイ9世はここヴァンセンヌから十字軍遠征に向かい、二度と戻ってこなかったとされます。そしてさらに、この土地を強化するために、天守閣がフィリップ6世によって足され、その塔は52mで中世で一番高くて頑丈な構造でした。天守 閣工事は1337年に開始。そして、天守閣を囲む長方形の城壁がヴァロワ一族によって約2世代後にようやく完成されました(1410)。

またヴァンセンヌ城はたんなる砦としてだけでなく、フィリップ3世(1274)、フィリップ4世(1322)のようにこのお城で結婚式を 挙げた王もいました。そして14世紀の王たちは皆ここヴァンセンヌ城で生まれています。ルイ10世 (1316)、フィリップ5世 (1322) 、シャルル4世(1328)。

17世紀には、ヴェルサイユ宮殿が注目を集めはじめ、ヴァンセンヌ城は多くの重要人物などが収容される牢獄の役割も果たして行きます。

18世紀この城は放棄されますが、その後まずはヴァンセンヌの陶器製造の地として(セーブル陶器博物館参考)、次に公式の収容所として、1796年には軍事品製造所として機能していきます。そして現在はthe French Armed Servicesの歴史的セクションとしての役割を果たしています。

また19世紀に英国様式の公園が作られます。そして1860年にナポレオン3世がヴァンセンヌの森と城を公共の公園として開放することになります。

ヴァンセンヌ城は1940年ドイツ軍侵略に対し、フランスが軍の本部を置いた場所でもあります。

Chateau de Vincennes ヴァンセンヌ城
12年の修復期間を終えて今年(2007年)オープンしたヴァンセンヌ城。6年前に訪れたときはまだ当然のことながら工事中で、いつかもう一度訪れたいなと思っていました。


高くそびえ立つ塔の中は意外に狭く、昔の様子が伺えます。


塔の地上階は倉庫、1階(橋のつながっている階)が出迎えの階、2階が王のプライベートの間、そして最上階には兵士たちが集まっていたそうです。


右の写真はクリックすると拡大します。


本丸を囲む塔の回廊。右の階段状にデザインされている部分は王の間。他の部分と違って、わざわざ手が加えてあります。


部屋の中は一本の柱を中心に、これが全階で一直線をなしています。


天井に使われている木材はかなり古く、時代を感じます。800年前に作られたというオリジナルです。


左は暖炉。右の写真は見にくいですが、トイレだったそうです。


実際はいろんな装飾が壁や柱に施されていたということです。

Ground Floor
中世時代には、この地上階は一階の小さな階段を使ってのみアクセスが可能でした。中庭に通じるドアのための開き口は18世紀に作られたものです。それ故に当時はこの地上階を台所として使うことはとても困難であり、代わりに貯蔵庫や召使達の部屋として使われました。 またこの階には、井戸や暖炉の跡が残っています。

また、上の階同様、この部屋も一本の柱を中心とした部屋となる予定でした。柱を隠してしまっている内側の壁は中世後期に作られたものです。19世紀に作られた窓の柵や独房の扉は、この部屋がかつて牢獄として使用されていたことを物語っています。1784年、この城の本丸は牢獄としての使用に終止符を打ち、囚人達はみなバスティーユに移されました。1785年から1790年の間は、ヴァンセンヌ村にパンを供給していたパン屋と東パリ地区が この地上階と本丸の中庭を占拠しました。

The Marquis de Sade’s cell
快楽主義哲学者、無神論者、スキャンダラスで挑発的な作家、Donatien Alphonse Francois de Sadeは好色な作品内容で悪名高かった。彼は2度、このヴァンセンヌに収容されている。一回目は15日間、売春宿での乱暴な行為に対して。二回目は、 1777年、売春婦毒殺で終身刑を宣告されました。ヴァンセンヌで7年を過ごした後、1784年にバスティーユへ移され、1790年自由を得ることになり ます。この本丸に収容されている間、彼の妻とは活発に連絡を取り合っていました。

ヴァンセンヌの牢獄
中世の頃から、フランスの王達は司法高官としての役割をも果たすために、それぞれの居住区に囚人を投獄する場所を持っていました。15世紀後半、ルイ11 世はこの本丸を囚人、時に重大な罪を犯した者などを収容するための牢獄として使い始めます。16世紀からは、公式にこの本丸が牢獄として機能していきます。その対象となったのは、プロテスタントなどの宗教異端者や政治敵対者などでした。

Pierre Ernst I of Mansfeld(1517~1604) は、the Emperor Charles Quintとルクセンブルグ総督の任務に服した戦争捕虜としてヴァンセンヌに投獄されました。しかし彼は、この本丸内で、料理などの家事をしたり、野うさ ぎやオオムなどのペットを飼うことを許されていました。そして身代金が出された後すぐに解放されることになります。

17世紀からは、フーケ(1615~1682)のように囚人は独房に入れられるようになります。1661年、彼はルイ14世によって投 獄されました(詳しくはヴォルヴィコント城参考)。

18世紀後半からは、バスティーユとともに王宮の牢獄としてシンボル化していきます。ある囚人達は裁判もなくここに連れてこられました。1749年のDiderotは、彼の作品が破壊分子的だとされ牢獄されてしまいました。

19世紀、1830年と1848年の改革後、免職となった高官たちがヴァンセンヌに収容されました。そして世界第2次世界大戦の終わりまで牢獄として使用されていきいます。

彫刻装飾
彫刻は窓の基盤に集中して用いられており、音楽を奏でる天使やファンタジー溢れる姿や予言者を描いています。これらの彫刻は修復時にコピーされたものです が、オリジナルのいくつかは中に展示してあります。音楽を奏でる天使というのは中世ヨーロッパの彫刻、ステンドグラス、絵画などによく見られ、14世紀中ごろから天のシンボルとして使われるようになりました。


音楽を奏でる天使たち

ベル塔と時計
1369年に作られたベル塔は、フランスで最初の公共時計。ここに現在たっている塔は2000年に復元されたもの。オリジナルのベルはサント・シャペルにある(サント・シャペルの ぺージも参考に)。シャルル5世によってパリ居住区に取り付けられた時計のうち、唯一現存する時計。王の書斎の上に設置され、また本丸にある王の寝室と同 じ階にあり毎日規則正しい時間を告げていた。


門の向こうに広がるのがヴァンセンヌの森(写真右)。


塔からの眺めも美しい(天気がいいともっとよかったんですが)。

参考:ウィキペディア English
ヴァンセンヌ城内の説明記事より
訳 aki

パリのメトロですぐに行けてしまうという便利さ。見学の後ヴァンセヌの森を散歩しながら一日を過ごすのもいいですね。パリはショッピングもいいですが、やっぱり歴史もおもしろいですよね。日本史と比べながら見学したりするとさらにおもしろい。ここでどんな人がどんな事を思っていたんだろ うと考えるとぞくぞくしてしまう。

ヴァンセンヌ城 オフィ シャルサイト

ラヌラグ公園

パリ16区、メトロ9番線La Muetteラミュエットから歩いてすぐのところに Jardin du Ranelaghラヌラグ公園があります。たまにここで私はランチをしたりするのですが、ちょっと休憩するのに便利ですよ。駅近くにパンのヤマザキがあるのも便利。そして、この公園をを通り抜けていくと Musee Marmottan マルモッタン美術館(観 光/マルモッタン美術館)があります。モネの絵を鑑賞し終わった後に、公園でのんびりしてみてはどうでしょうか。

天気のいい日には、子ども達が集まって遊んでいます。ベビーシッターの人も多いですね。私はそんな様子をベンチから眺めながら読書をするのが好きです。公園の周りはジョギングやサイクリング用の道が最近整備されたそうです。運動にもいいですね。

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マロニエの木に囲まれた歩道を散歩するのもいいですよ。


そしてこの公園には、17世紀フランスの寓話作家Jean de la Fontaineジャ ン・ド・ラ・フォンテーヌの像が。
(一部ヴォルヴィコント城のぺージでも紹介しています。)
この公園にあるシーンは「カラスとキツネ」の話がモチーフになっていますね。

「カラスとキツネ」

散歩していたキツネが木に止まっているカラスを見つけました。
そのカラスは盗んだチーズのかけらを口にくわえ満足そうにしていました。

キツネはそのチーズを自分のものにしたいと考えました。
そして、木の下まで行って、そのカラスに「なんて愛らしいカラスなんだ」と、ほめ始めたのです。

カラスはその言葉を信じ、「私って結構きれい」と、心の中で思いました。

さらにキツネは「君は美しい声も持っているに違いない」と続けました。

すると、カラスは自分の声を自慢したいと思いながら、「もちろんよ」と心の中で思いました。

そして次の瞬間、カラスは口ばしを広げ、大きく「カー」と鳴きました。
すると、くわえていたチーズがまっすぐキツネの口へと落っこちてしまいました。

教訓

お世辞にだまされるな!

公園で今度イソップ童話を読んでみるのもいいですね。たくさん教訓があっておもしろいです。

マルモッタン美術館

メトロ9番線La Muetteラミュエットから Jardin du Ranelaghラヌラグ公園(観光/ラヌラグ公園)を通り抜けていくと Musee Marmottan マルモッタン美術館がひっそりと立っています。同じパリ16区に住みながらなかな行くチャンスが現れず、やっと今回主人と訪れることに。オランジュリー美術館とジヴェルニーを訪問し、なんとなくクロード・モネの足跡を追っている私達です。

マルモッタン美術館の歴史

ではまず、このマルモッタン美術館の名前の由来ともなっている人物、美術史家・収集家のポール・マルモッタン(1856-1932)について。この美術館はもともと1840年にある貴族によって狩猟用に建てられたものを、ポール・マルモッタンの父が1822年に購入し、邸宅用に改造しました。ポールの死後は、彼のコレクションなど含め全てがアカデミー・デ・ボザールに寄贈され、1934年から美術館として公開されるようになりました。

主なコレクションには、新古典主義(ナポレオン時代の絵画様式)などの絵画やアンピール様式と呼ばれる調度品があります。美術館内を 回っているようで、実は彼の邸宅の一つ一つの部屋に並べられた作品を見て回るような感じになっているんですね。

さらに、1957年、モネの医者であったジョルジュ・ド・ベリオの収集品が、彼の娘から寄贈され、この中に「印象・日 の出」の作品が含まれていました。また1966年には、モネの次男ミシェル・モネより、父親モネの作品が多数寄贈されました。このよ うにマルモッタン美術館には、多くの個人収集家からの寄贈を受け、印象派画家達の作品が多く集まっていることで有名になりました。

「印象・日の出」から「睡蓮」まで / モネの歴史

1840年にパリのラフィット街に生まれ、その後5歳の時、一家でノルマンディー地方のセーヌ河口の街Le Havreル・アーヴルに引っ越します。少年の頃から絵の得意だったモネは、絵の勉強をし続けます。そして彼の絵がル・アーヴルで活動していた風景画家ウジェーヌ・ブーダンの目にとまり、彼らは知り合うことに。そしてモネは画家になる決心をしました。ブーダンはキャンバスを戸外に持ち出し、陽光の下で海や空の風景を描いていた画家でした。ブーダンと出会ったことが、後の「光の画家」モネの生涯の方向を決定づけたとも言われています。

le  havre
Le Havre: ル・アーヴル(Havre)はフランス語で港を意味します。

Trouville
トルーヴィルの浜(1867):ブータンの作品。
ノルマンディー地方のオンフルーレで水夫の子として生まれる。
1857年にモネと出会い、モネに屋外で絵を描くことを教える。

1860年:(1859年とも)、パリに出て、アカデミー・シュイスに学び、ここでCamille Pissarroカミーユ・ピサロらと知り合う。

pissarro
「ポントワーズの庭」(1877):ピサロの作品。
1860年代にはパリ近郊のルーヴシエンヌ、ポントワーズなどで、
モネ、ルノワールらとともに戸外にキャンバスを持ち出して制作した。

1870年:普仏戦争を避けてロンドンへ赴きますが、ここではイギリス風景画の第一人者Joseph Mallord William Turnerジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーを研究しました。

Turner
「戦艦テメレール号」:ターナーの作品。
大気と光の効果を追求した画家。

1873年:彼が32歳の時、ノルマンディーへと向かいます。そしてそこで「印象・日の出」が作成 されました。その翌年にはルノワール(観光/ルノワールの風 景)、シスレー(観光/モレ・シュール ロワン) らと「画家・彫刻家・版画家・無名芸術家協会」を結成。

impression sunrise
「印象・日の出」:印象派という流派名の由来となったモネの代表作です。

1875年:日本の衣装をまとったモネの妻カミーユをモデルにした「ラ・ジャポネーズ」が作成。風景画家モネによる人物画の大作として有名です。
1877年:「サン・ラザール駅」
1885年:「日傘の女」作成。第7回印象派展開幕。
1890年:モネ49歳の時、 ジヴェルニー(観光/モネの家ジヴェルニー)の土地と家を買 う。そしてその後少しづつ土地を拡大していき、睡蓮の池を中心とした「水の庭」、さまざまな色彩の花を植えた「花の庭」を造りました。画家自身この庭自体が自分の「最高傑作」だと言っていたという。
1892年:「ルーアン大聖堂」の連作を始める。
1894年:デュラン=リュエル画廊での歌麿と広重の版画展を見に行く。
1898年:モネ57歳、 「睡蓮」を多量に描き始める。
1926年:モネ86歳、 12月5日 ジヴェルニーで死去。
1927年:オランジュリー美術館(観光/オランジュリー美術館)に「睡蓮」の大連作が展示される。

ここマルモッタン美術館では、「印象・日の出」が見られる他、ジヴェルニーで描かれた多くの作品が鑑賞できます。地上階がポール・マル モッタンのコレクション展示で、地下にモネの部屋が用意されています。また階段を上って2階に上がると、シスレーなど他の印象派画家たちの作品を目にする こともできます。

水面下の植物や霧がかった景色がぼんやり浮かび上がってくる、そんな効果のある彼の作品の数々をぜひ見に行ってみてください。

参考文献・写真 ウィキペディア

マルモッタン美術館
2, rue Louis-Boilly 75016 Paris
Tel: 01 44 96 50 33

オープン: 10:00~18:00
クローズ: 月曜日、5/1、12/25、1/1
入場料: 8ユーロ

オフィシャルサイト