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パリ4区マレ地区のオススメ

パリ4区にあるマレ地区一帯にはオススメがたくさん。カフェ、レストラン、雑貨屋さんだけでなく、そこにはたくさんの歴史的建造物が点在しています。

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マレ地区の地図/クリックすると拡大します。

まずメトロ1番もしくは11番線などでl’Hotel de Ville(パリ市役所)で降りると移動がしやすい。市役所の中には郵便局も入ってい るので覚えておくと便利。では、まずはこの市役所の前にあるお店を紹介しましょう。日本でも有名なパン屋さんPaulが ちょうど角に立っています〈フランスでも人気)。結構いろんなところに店舗があるので見かけたらお試しを。さらに目の前にあるRue de Rivoliを東に向かって歩いていくと、BHV(べーアッシュヴェー)と いうデパートが現れます。化粧品、アクセサリ-から日用雑貨品などを多く扱っているお店です。他のデパートとは少し違って庶民のデパートと言ったところでしょうか。

hotel de ville パリ市庁舎

さらに進んでいくと、Rue du Bourg-Tibourgという通りがあります。ここを左手に入っていってみてください。ガイドブックなどでも有名なMariage Freres(マリア-ジュ フレ-ル)というお茶専門のお店があります。店内には数多く世界中からのお茶が売られていて、 お土産に買っていく人をよく見ます。もちろん店内でそのお茶を味わうこともできます。少しお高めですが。私的には、一つ向こうの 通りにあるEtoile Manquante(エトワ-ル マンカントゥ)というカフェがおもしろくてオススメ。私も知り合いに教えて もらったカフェなのですが、ある有名なデザイナ-が設計したらしく、そのおトイレのデザインがすごい。一度入ってみてください。さらに、その通りとぶつっかている通りが、Rue ste-Croix-de-la-Bretonnerie。この通りにあるPylones(ピロヌ)と いう雑貨店には、たくさん変わったものが…見てるだけども楽しい(パリ市内にいくつか店舗があります)。デザインなども面白かわいく、ついつい買ってしまいます。ちょっと変わったお土産にオ ススメ。そしてこの通りをまた東の方へ進んでいくと今度はRue Vieille du Templeという通りに出ます。ここからMusee Carnavalet(カルヴァナレ美術館)までの 一帯には他にもたくさん小さなお店があるのでチェックを。歩いているだけで楽しいですよ。

mariage frere Mariage Freres

pylone Pylones

さてそのMusee Carnavalet(カルナヴァナレ美術館)とはルネサンス様式の館で、1677~1696年には書簡文学で名高いセ ビニェ婦人が住んでいました。カルナヴァナレ館とプルチエ・ドゥ・サン・ファルジョー館からなり、共にパリ市歴史博物館として資料を年代別に展示しています。豪華な調度品などから当時の生活ぶりがうかがえます。たくさんの部屋があり、見た目よりまわるのに結構時間がかかります。さらになんといってもこの美術館いつも無料なんです。朝10時から18時まで。月曜・祝日が休館です。ぜひ時間があれば訪れてみてください。

carnavalet


Musee Carnavalet

さらに、Rue des Francs Bourgeoisを東へまた進んでいくと、Rue du Pas-de-la-Muleにかわり、Place des Vosges (ヴォ-ジュ広場)に着きます。 この広場は芝生で美しく飾られおり、中央にはルイ13世の騎馬像が立っています。とても落ち着く広場です。そしてその広場をぐるっととリ囲むように、たく さんのア-トギャラリ-が並んでいます。広場がちょうど正方形の形をしているので、とてもユニ-クな一帯となっています。

ヴォージュ広場はもともとあったTournellesの館(王の住居)とその公園の上に築かれました。1559年、Tournellesの馬上槍試合においてアンリ2世が怪我をし死去すると、王妃Catherine de Medicis〈カトリーヌ・ド・メディシス)はそのゴシックの館を崩し、ルーヴル宮へと引っ越して行ってしまったのです。1605年から1612年にかけてアンリ4世によって再び広場が再構築され、1612年にはルイ8世とオーストリアのアンとの結婚を祝うための騎馬パレードがここで開催されました。ヨーロッパに見られる居住区広場としての原型をなしていきます。またこの時から家の正面が同じデザインに統一されます。南北に一際高く伸びる2つのパヴィリオンはthe Pavilion of the King〈王の館) と the Pavilion of the Queen〈王妃の館)と名付けられていますが一度も王室の人物が住むことはありませんでした。フランス革命前まではこのようにこの場所はthe Place Royale 「王の広場」と呼ばれていました。

place  des vosges


今では人々が集う美しい公園。四方を建物に囲まれ全体がきれいにまとまって見えます。


建物の下はこんな風に歩けるようになっており、カフェ、レストラン、アトリエなどが並んでいます。

place  des vosges


ちょっと狭い場所でカフェは・・・落ち着きがなさそう・・・人が思いっきりテーブルの間を通りますから。お店は見ていておもしろいですよ。アートギャラリーをウィンドー越しに見ながら歩いて行きます。


そしてthe Pavilion of the King と the Pavilion of the Queenですが、特に何かがあるわけではなくその部分が少し高い建物になっています。

Hotel de Sullyシュリー館:ヴォージュ広場の南西の位置に小さな入り口があり、そこを入って行くとシュリー館の敷地です。Rue St Antoineに通り抜けができますが正式には62 rue Saint-Antoineと住所になっており入り口はこちらから入ったほうがいいかもしれません。

1624年、宰相Mesme GalletはPlace Royale〈現在のヴォージュ広場)に通じるような形で館を建てさせます。その後1634年、アンリ4世の宰相シュリー公Maximilien de Bethune〈マクシミリアン ドゥ ベテュヌ)がこれを買い取り、内装を完成させ晩年をここで迎えます。さらに1660年、彼の孫Maximilien、2番目のシュリー公が新しい棟を追加。シュリー家は18世紀までこの館を所有していました。その後ざまざまな持ち主の手に渡り、1862年に歴史的建造物として登録され、2000年にはCentre des monuments nationauxとなり歴史的建造物の保護管理を運営する公共機関として機能しています。。

ヴォージュ広場の南東隅にはヴィクトル・ユーゴ記念館

この建物はもともとIsaac Arnauld〈1566年~1617年)と言うCorbevilleの領主に由来します。シュリーによりフランス王国の経理担当者とされ、ヘンリ4世に財務監督職に推されるという経歴を持ち、Hotel de Guemene〈ゲムネ館)を現ヴォージュ広場に建てます。さらにde Rohans familyにより実質的に改善がなされ、Hotel de Rohan-Guemenee〈ロアン‐ゲメネ館)と名づけました〈アクサンは省略)。そして1832年になり、ヴィクトル・ユーゴが30歳のときに妻Adeleと伴にこの家に引っ越してきます。

ヴィクトル・ユーゴの友達として知られる小説家で脚本家のPaul Meurice〈1818年~1905年)により多額の寄付がなされこの館が記念館として姿を変えることになります。


Musee de Victor Hugo ホームページ

中央写真はヴィクトル・ユーゴの寝室。ここでユーゴは1885年に亡くなります。また、手前にあるのは小説を書くための机。立って書いていたことがこの部屋にある写真を見てわかります。

さてヴォージュ広場を離れてRue St Antoineへと出ます。ちょうどRue de Rivoliと名前が変わるあたりに大きな少し黒ずんだ教会が見えてきます。

St Paul St Louis教会:1627年にルイ13世が第一番目の石を置いたところからこのイエズス団体のための教会の建設が開始されました。パリでも最も古いドームの一つ、そのスタイルは典型的なイエズススタイルで建築においてもとても興味深く、また多くの芸術作品が使われています。


おしゃれなお店が立つ通りで一際目立つ教会。目の前に立つと威圧感を感じます。

さあRue de Rivoliをまた進み、市庁舎へ戻って今度は北上して行きます。するとCentre G.Pompidou(ポンピドゥーセンター)が見えてきます。役立ち情報・観光名所でも紹介したように、ここには近代美術作品 がたくさん展示してあります。またこの建物には図書館や、本屋さんも入っており、ア-トの好きな人にはもちろん、またそうでない人にもきっと楽しめる場所 だと思います。例えば、私のオススメは入り口左のエスカレ-タ-を登った所にある最新デザインの売店。かなりユニ-クなものがみつかります。変わったデザインの家具、台所用品、文房具類など、他にもたくさん、ちょっとした小物なんかはお土産にいいかもしれませんん。さらに、ここからのパリの眺めもオススメ します。遠くにサクレク-ル寺院などが眺められ、作品を見ながらくつろぐのもいいでしょう。

pompidou

pompidou
ポンピドゥーセンターの5階からの眺めです。この向こう側にサクレク-ルが。みんな写真を撮っている様子。

pompidou

pompidou

pompidou
現代美術作品。いろんないすがテ-ブルにくっついている。ゴミだらけの部屋。高島屋の紙袋が…

Centre G.Pompidou  ホー ムページ

またパリ市役所の向かいにSt Gervais St Protaisという教会があります。この教会の裏側に細い路地Rue des Barresがあります。ここもとても雰囲気のある通りで、通りの最後に教会のハチミツやさんがあります。その名もProduits des monasteres(プロデュイ デ モナステル)、小さなお店ですが店内には数多くの種類のハチミツ やジャムがそろっていてオススメ。どれも無添加。ブル-ヴェリ-ジャムが好きな私ですが、ブルーヴェリ-ってこんな味なんだと初めて知ったような気がしまし た。もともと教会の僧侶は人里から離れたところにすんでいてこのような蜂蜜やジャム作りをして昔は町に売りに来ていたということです。

jam shop
Produits des monasteres 住所:10 rue des Barres 75004

jam shop
この看板が目印。

ちなみに、このマレ地区という一帯はゲイの方がたくさんいらっしゃる地域です。カフェなどでも少し違った光 景を目にするかもしれませんが、それも文化の違いと思って!!!

パリ4区関連ページ:フィリップ・オーギュストの城壁 こちらのページでもパリ4区の歴史的な見所を紹介しています。
パリ4区関連ページ:パリで見つけた芸術 パリ4区にある国際芸術都市

ロダン美術館

Musee Rodin
メトロ Varenne
77, rue de Varenne
75007 Paris
Tél. 00 33 (0) 1 44 18 61 10
Fax. 00 33 (0) 1 44 18 61 30
開館 9:30 ~ 17:45 (冬季16:45)
休館 月曜日 5/1, 12/25, 1/1
入場料 5€ (25歳以下は3€)
Website Musee Rodin

museum

ロダンの彫刻やデッサンを集めた美術館。アンバリドのすぐ横にひっそりと緑に囲まれる一角があり、ゲ-トをくぐると庭中いたるところに像が立っている。き れいに整理された庭とロダンの作品の調和が素晴らしい。建物はロダンが亡くなるまでの9年間を過ごしたロアンの館。代表作の「考える人」「カレ-の市民」 は庭園に、ロダンが収集した絵画や家具、古代美術品は旧礼拝堂内に展示されている。

statue  people

statue  people

まずはそのロアン館の前にある庭園を奥へ歩いていき、振り返ってもう一度その館を眺めてみる。西洋らしい庭 園の構造の写真が撮れますよ〈ちょうど一番上の写真のように)。とても美しい風景です。西洋人が日本庭園を異国情緒を感じる風景と考えるように、日本人も 西洋の庭園を見れば、異国情緒を感じるものでしょう。そしてその庭園の横になんともフランスらしくカフェがある。そこでゆっくりくつろいでさらにその情緒 を味わうのもいいかもしれません。

代表作品は、このロアン館を挟んで庭園の反対側にある(入り口側)。花々で飾られた小さな一角の真ん中にあの「考える人」がいまだ長い時間を越えて考え込んでいる。彫刻というと厳かなイメ-ジをもっていたのですが、花に囲まれたその彫刻を見たとき何かいい意味で裏切られたような気がしました。そこで私が考えることは彼が今この時代に何を考えているんだろうということ。いつの時代もきっと考えない時は一秒もな いんだろうなと。本当に狭い一角に彼に会うためたくさんの人が集まっていました。

thinker thinker

さて、話は変りますが、この「考える人」世界にいくつあると思いますか。私が以前静岡県立美術館へ訪れたとき確かにあの「考える人」が考えているのを目撃しました。この美術館によると世界に「考える人」は21体あるそうです。 そして何を考えているのかというと、1880年、彼の有名な作品の一つ「地獄の門」の注文を受けてから、門の上に立って、足下に広がるダンテの『神曲』に記された地獄の悲劇を見つめる「ダンテ像」を門に組み込むことを考えていたということです。そう、初め「考える人」は「地獄の門」に座って地獄に落ちた人々の運命を考えていたのです。そしてそこから切り離され、「詩人」という名によって1888年、コペンハーゲンで初公開されことになります。

原型は高さ63cm。「考える人」は人気を博したため、ロダンは高さ38cmのより小さい像を作っている。また、静岡県立美術館のものは、高さ183cm の拡大像だそうです。パリの「考える人」、静岡の「考える人」世界中に「考える人」はいたんですね。

Website 静岡県立美術館

オーギュスト・ロダン (1840-1917)
パリ警視庁下級吏員の子として生まれ、14才で学業放棄する。22才で修道士を志すものの翌年還俗。カリエ・ベルーズのもとで修行した後、イタリアを旅行 し、ドナテルロやミケランジェロを研究して自己の道を見出し、以後、世紀の転換期に力強い表現力と大胆な造形性を発揮した近代彫刻の祖。

white  statue statue  painter

ロダンの作品。右端がパリにある「地獄の門」。静岡県立美術館には巨大な「地獄の門」がありました。

カミ-ユ・クローデル ( 1864-1943 )
ここでロダンにまつわるもう一人の彫刻家を紹介。
カミユ・クローデルは幼少の頃から彫刻家になるのが夢だったが、当時女の子が芸術家になろうと考えることは奇想天外なことだった。1881年パリの美術学 校で学び始め、翌年サロン(政府主催の官展)に送った石膏胸像「老いたヘレナ」が入選。アトリエにはロダンが新しい指南役として現れる。オ-ギュスト・ロ ダンはこのとき42歳。あまりに正確なため石膏で型をとったのではないかと陰口をたたかれた彫像(1877)が出世作となり、量感あふれる作風で他を圧倒 する新進気鋭の彫刻家だった。

16年連れ添う愛人ロ-ズのいた彼はカミーユの才能に衝撃を受け、また二人は愛し合い反発しあった。この時 期にロダンがカミーユの手を借りて作った男女の像に、当時の二人の関係の難しさがあらわれている。

ロダンの代表作「カレーの市民」でもカミーユは百年戦争史を読みあさってアイデアを出したが、発表の場では協力者として紹介されない。一方彼女の自作「インドの悲恋伝説」「ワルツ」には、〈みだら〉〈ロダンの物まね〉と批評が出る。29歳のカミーユは失意に沈 み、ロダンとの関係をたつことにした。

たちまち生活苦に陥ったが、後に彼女の代表作となる胸像「館の小さな女主人」が有名な銀行家に売れ、ロダン を痛烈に皮肉った作品「分別ある年輩」は、良心の呵責を感じるロダン本人の推薦で、国に売れる。

もちろんこのことは彼女に知らされなかったが、折りあるごとに「ロダンの生徒」と囁く声は嫌でも耳に入って くる。彼女は徐々にロダンを憎むようになり、精神のバランスを失い始めた。1905年、カミーユの弟ポールが訪ねてきたとき、カミーユは自分で破壊した作 品の中に座り、ロダンがアイデアを盗みにくると呟いていたという。

父親が志望した1913年、ポールは、全身垢にまみれてアトリエにこもる48歳の姉をパリから連れ出し、ア ビニョン郊外の精神病院に入れた。患者を犯罪者のように扱う当時の精神病棟で、カミーユの精神状態はよくならなかった。1917年にロダンが亡くなり、カ ミーユも30年間病院から出ることなく、1943年に悲しい一生を終える。

戦後カミーユの作品はパリのロダン美術館に展示された。それは、カミーユ入院の知らせに心を痛めた晩年のロ ダンが、建設を予定する美術館の一室をかつて共に生き、共に闘った比類なき天才女性彫刻家、カミーユ・クローデルに捧げることを強く望んだからという。

Website Camille Claudel
彼女の彫刻作品などが見れます。

こんな話を知ってから美術館に行けば、また違った思いがわくかもしれません。歴史の断片だけでなく、その時代に生きた人物を見て作品を鑑賞をしてみるのもいいですね。

パリ郊外ジョワンヴィル

Joinville-le-Pont

ある日突然思い立って、パリから少し出てみようとランチ用のサンドイッチを作って、地下鉄とRER(パリ郊 外行きの鉄道)を乗り継ぎ、約15分程度の所にあるジョワンヴィルという町へ行ってきました。何があるのと聞かれると答えに困るのですが、パリ西部のヴァ ンセンヌの森の向こう側に位置するこの小さな町には、パリの忙しさから離れなんとなくほっとする雰囲気があります。

ジョワンヴィル近郊の地図

ジョワンビル駅を出てまっすぐ歩いていくと、セ-ヌ川(厳密にはセーヌが分岐したマルヌ川)が流れており、その岸辺には散策道があり散歩する人、 ジョギングをする人などが見られ、とてものどかな風景です。また中州のような島の上に降りると、ここにもまた優雅な景色が。いろんな色の花で飾られた大き な庭つきのかわいらしい家々が立ち並んでいます。こんな所にどんな人が住んでいるんだろうと興味津々。行ったのがちょうど日曜だったこともあり、庭からバ -べ-キュ-を楽しむ人々の姿も。うらやましい。

small  math

house

house
橋から階段を下りて島の奥へと進むと 小さな道が島の両サイドに現れます。そしてその道沿いに贅沢な家々が。

river

boat
家々の正面にはせ-ヌ川(マルヌ川)が流れており、いつでもボート遊びができそう。

cannoe

park
ボ-トでセ-ヌ下りはいつでもOK。そして私はといえば、同じ島の上にある小さな公園のベンチでランチを。ボ-ッとするのもたまには必要です。

パリが発展しセーヌに大きな船が頻繁に出入りするようになり、事故を防ぐ意味でカヌーなどのレジャーがここジョワンヴィルに移動してきたのだとか。確かにここは時間がゆったりと流れていて、パリから15分の場所だとは信じられません。

また島の上で見つけたカヤックスク-ルも面白そうだったので興味のある方はホ-ムペ―ジをチェック。
Joinville Eau Vive Canoë Kayak

川の駅側の岸には、屋外レストランのようなただ外にテ-ブルを並べただけのような、でもちょっと気になるレ ストランがあります。天気のいい日に生の音楽演奏を聴きながら食事をするのもいいですね。

restaurant

Joinville-le-Pontへの行き方・Chateletから RER/A2 のBoissy-Saint-Leger 行きに乗り、ジョワンルポンJoinville-le-Pont駅下車。

フランスの人種問題

フランスに現在住む私は、もちろんフランス人にとっては異人種の一人。今まで日本に暮らし自分がマジョリティだったころは、人種という言葉にそれほど関心がなかったように思います。とりわけ日本という国は単一民族で、人種というものが問題になることは少ないですからね。しかし海外に出ると否応なしに日本という国がどれほどユニークな国であるか感じさせられます。

フランスへの定住移民
フランスの合法的移民数が1999~2002年に36%増。この背景には97年から5年間に及ぶ左派政権によって行われた不法移民の合法化の動きがあり、 今や来仏する移民の主要目的は家族呼び寄せなどの「家族形成」だという。(この報告書は社会問題省の人口・移民局が作成したものである。)

フィガロ紙で明かされた概要によると、国際移民局、内務省、仏難民・無国籍者保護事務局の統計に基づき調査した結果、2002年に定住目的で1年以上の滞在許可証を取得した外国人は前年比16%増の156万人を記録。98年の11万5千人と比べると驚異的な伸びで、特に欧州経済圏外の出身者が増加している。

この「家族呼び寄せ」カテゴリーの来仏者は99年の5万人から02年には8万人にのぼり、03年も続いた。しかし移民法改正により、新規移民法の定住化条件が厳しくされたことから、今後の移民増は微妙な情勢。

graph

人種問題
このように国内にさまざまな人種が集まることにより、文化・習慣などのトラブルが起こる。移民してやって来る者の多くは貧しい階級出身で教育がしっかりされていない。そのため犯罪を引き起こしやすい。また宗教の違いから起こる差別は一国だけでなく世界全体を取り巻く問題となる。

ユダヤ人とムスリム
その中でも一番の問題が、ユダヤとムスリムである。 ここに最近あった事件記事を挙げます。

2004年7月9日、マリーという23歳の女性が、パリ郊外の電車内で6人のアラブ人と黒人に襲撃されたと通報。調べによると、6人グループはこの女性をユダヤ人だと思い込み、女性の髪や体をナイフで傷つけ、体に旧ナチスドイツの党章、卍のマークを刻み込んだということだ。さらには 13ヶ月になる彼女の赤ん坊までもターゲットに。その間乗客といえば知らぬ顔。

これに対しシラク大統領は、「反ユダヤ人の理由のない攻撃である」と非難し、犯罪者に対して厳しい措置をと訴えた。

しかしながら、この事件は解明されることなく、7月13日までに当事者であるマリーが「全ては彼女自身がでっち上げたうそであった」ということを告白し、多くの国民を驚かせた。

ここで注目したいのは、国民をはじめ、国家のトップでもある大統領の反応の大きさである。このことは、人々がこのような事件が起こりう るということを知っているのだということを裏付けている。今日のフランスは、こういった反ユダヤなどの人種差別が日常の中に浸透してしまっているのです。 フランス人権協議委員会は、2004年度上半期においてすでに766件の反ユダヤなどの人種差別に関する脅迫や襲撃があったと報告している。これは去年一 年間で起こった817件とほぼ同じ。2004年に起きたケースのほとんどはユダヤ人がターゲットとされているが、アラブ人に対する差別犯罪も膨れ上がって きている。2003年では164件であったのが、2004年の上半期にはもうすでに256件の事件が起こっている。

統計によると、2000年以来、フランスの約650,000人のユダヤ人コミュニティがその主な襲撃の標的となっており、以前は近代ナチスがその決行者であったが、現在はそのほとんどがフランスの荒れた郊外に住む恵まれない環境のアラブ系の若者たちに取って代わっている。フランス警察情報機関から漏れた最近の機密情報によれば、200万人以上のフランス人がこういったスラム化した300の郊外に住み、社会の主流から切り離され、暴力や宗教過激主義に包囲されてしまっている。こういった問題の背景には、パレスチナ問題やイラク戦争があり、若者たちの怒りをユダヤ人に向けさせてしまっているのだ。

現在のところこういった事件の背後に組織立ったものは見られませんが、ユダヤ人リーダーたちは、「フランス政府が反ユダヤを非難しないために、フランスには5万人ものムスリムがいるにもかかわらず、多くの襲撃がユダヤ人に向けられるのだ。」それに対しムスリムリーダーたちも、「反ユダヤ 感情の裏にアラブ人があげられること自体人種差別のあらわれだ。」と反論している。

demo

しかしながら、現在反ユダヤが問われるとき、ムスリムが疑われるのは免れない。フランスでは蔓延する《イスラム嫌い》のため、責任が全てムスリムコミュニティへと運ばれてしまうのだ。

ユダヤ人以外の人々にしても、日々の偏見だけでなく、明らかな差別へと変化している。それらは報告されないでだけで、共通の人種差別であるといえる。

シナゴーグやモスクなどは放火され、ムスリム・ユダヤ人の墓地は近代ナチスの冒涜の場所と化している。

grafitti on tombstones

一方フランス側は、宗教や文化の違いは公の場所では禁止されるべきだと訴えている。ムスリム女性のスカーフもその例の一つになるだろう。学校という公の場で宗教の主張をするべきではない。そこは平等に与えられた宗教越えた場であるからだ。

以上TIME紙より参考

 

パリの中の文化衝突

EUの税金事情

ヨーロッパの税金

ヨーロッパの人々は世界で一番高い税金を払っている!

まず各国の2002年におけるGDPパーセンテージとしての税歳入をみてみましょう。

スウェーデン 50.6%
デンマーク 49.4
ベルギー 46.2
フィンランド 45.9
フランス 44.2
オーストリア 44.1
ノルウェー 43.1
イタリア 41.1
オランダ 39.3
チェコ共和国 39.2
ハンガリー 37.7
アイスランド 36.7
ドイツ 36.2
イギリス 35.9
スペイン 35.6
ギリシャ 34.8
ポーランド 34.3
ポルトガル 34
スロヴァキア 33.8
スイス 31.3
アイルランド 28

 

european map showing tax percentage ク リックすると拡大します。

*アメリカ  28.9%
*EU15 40.5%
*日本 27.3%

*2001年度の統計

高い税金を払うと….
まず、充実した福祉サービスが受けられる他、健康保険、安い公共交通機関、町の清掃、さらにはヨーロッパでは教育機関になどが私立をのぞき無料。大学がなんと無料。初めて聞いたときはそんなことが可能なのかと驚きましたが。さらに学生の間は国から家賃の手当てがもらえ、さらにはファストフードレストランなどでは学生証を提示するとおまけがつくという。いたりにつくせり。医療費も日本と比べるともちろん安い。ほとんどが保険で支払われるので、なんでもない小さ なことでもお医者さんに見てもらう。

上がり続ける税率
しかしながら、税金はここ30年の間に急激に上がり、多くの人々が嘆いています。サービスは向上しないのに、どうしてより高い税金を払わなければいけないの かと。

あるフランスのアンチ・タックスグループが”税解放の日”を祝う新聞広告を出しました。『2004年度7月16日までのフランス人がつくり出 した所得(半年以上)は、全て政府へ支払われる計算である。』多くの経済学者、財政アナリスト、さらには政治家でさえこのままではいけないと訴えています。

こういった運動はヨーロッパ全土にみられ、オーストリアは法人税を34%から25%に下げることを承認。2005年度より施行。またベ ルギーでは去年法人税を40%から34%にカットしました。ちなみにエストニアにある企業は国内に再投資する利益については税金0。さらにドイツでも今年わず かながら所得税の値下げ。

フランスでは多くの企業家たちがこういった高額の税金から逃れるため国外へと移住。ボルドーにあるビジネススクールの教授はこう いった企業家の流出により1千億ユーロの価値が失われたことになると見積もっている。

EU統合による新たな問題点
EUの新しいメンバーである多くの東欧諸国は西欧諸国よりも低い税率。企業に対する実質税率は平均21.3%で、旧メン バー平均の29.4%を下回る。その結果、EU政府にとって税政策が大きな課題となっているそうです。例えば、フランス、ドイツなどの国々は”調和”を大切にと他の税率の低い国々も彼らのように高い税率へ引き上げるようにと主張しているのですが、EU本部では大多数の賛成を受けていない。

アイルランドの自慢
ここでアイルランドについて。この国の自慢は過去15年間において個人所得税を35%から20%へ下げたこと。 また法人税なども値下げ。アイルランドの税金は過去7年間で24.5%と18%ポイントも下がった。このことは、例えば100ユーロ稼ぐと、平均的アイ リッシュ人は家へ75.50ユ-ロもって帰ることができる。一方ベルギーでは、同じ稼ぎでも45.50ユーロしか持ち帰れない。さらにこの低税率のお かげでアイルランドでは、失業率が5%以下にまで改善されました。

しかしながら他国がこの政策を適応するのかどうか・・・。多くは90年代のこの驚くべき経済成長をEUの助成金のおかげだとしている。さらに は、現在の状況として、この経済成長は速度をゆるめ、財政赤字を引き起こしている。しかしながらアイルランドの教訓はその低い税率だけではなく、そのシン プルな税金の種類にもある。20年前この国には6つの異なる所得税のカテゴリーがあったのだが、現在は2種類だけである。

労働と消費
ヨーロッパのもう一つの不満は、労働と消費に高い税がかけられること。その率はアメリカよりもはるかに高い。そのことが EU政府の国民の消費力、雇用、開発の活性化という目標と相反してしまう。例えば、最近ベルギーでは科学研究者をかかえる企業に対する社会保障負担を 半減するという案を認可。またフランスでは、小さな会社”Young Innovative Enterprise” という新しいカテゴリーを設けた。設立より3年間は完全に免税され、その後2年間は50%の割引が与えられる。

税金の無駄遣い
2003年フランス司法省は非行少年用の少年院を数件増加した。その中でも、ノルマンディーにある大きな公園とプールつき の18世紀の城を使ったのである。そこでは8人の非行少年を監督するのに27人の人々が雇われている。フランス人の税の年平均支払額は170万ユーロ。そ れに加え、城に対して61万ユーロ。フランス政府は、年間約1千億ユーロの無駄遣いをしていることになる。これは高いように見えるが、実際1980年以来 30%ほどフランス公共サービスが膨れ上がってきているのは確かだ。フランス人4.3人のうち1人が政府のために働いていることになり、政府のお給料は国 家財政の43%にもなる。財政省ニコラス・サルコジは公務員を減らすことが一番の解決法だと言い、すでに5000人の税検査官を解雇する計画を発表してい る。

さらに、フランスには実に法外な税金が存在する。財産に対する税金で、おそらく世界で一番広範囲のものといえる。フランソワ・ミッテラ ンにより1988年に現在の形で施行され、72万ユーロ以上の財産のあるものに対して税金がかけられる。その対象となるものは、株や証券、銀行口座、不動 産、さらには個人的所有物でさえ適応される。約300,000人のフランス市民と在住者がこの政策の犠牲にある。そしてこのことが、才能ある人物をフラン スから追い出しているのだ。多くのフランス人は、金持ちはたくさん払うべきだと考えているのだが、そういったお金の余裕のある人々がビジネスを生み出し富 を呼んでいるとは気づかないようだ。

以上TIME紙より参考