Category Archives: フランス観光

Roussillonルシヨン(プロヴァンス)

パリからTGVでAvignonまで行き、そこから東へ向かうとRoussillonという町があります。アクセスの仕方はRoussillon en Provenceのサイトより参考にされてみてください。

ルシヨンの町

オークルと呼ばれる黄土がこの地域には広がっており、赤や黄色の色をした家があちこちに並んでいます。本当にお化粧したような壁の仕上がりですね!ルシヨンの土で焼いた陶器も赤い!

ルシヨンに見られる黄土(オークル)とは

顕微鏡でこの砂を観察してみると高陵土の6角形プレートが見られます。純粋なままであれば白色をしていますが、鉄酸化物が増えると薄い黄色から赤紫色に変化します。黄土(オークル)とは高陵土と鉄、それにクウォーツ(石英)が混ざったもので、中でも高陵土の割合が高い。南フランス特産で、顔料、タイルや素焼きの材料などに使われることで有名です。


とてもきめの細い土と言うか砂で、触るとサラサラしていて気持ちがいい。緑の森の中、黄土色の山がそびえ立ちます。


赤茶色、黄、黄土色、自然にできた色の変化。昔はここに採掘場がたくさんあったそうです。


時代とともに採掘場は姿を消し、その後観光がルシヨンを支える産業に。


ゆっくり歩いて30分ほどでコースを回ることができます。歩いているだけで、きもちいい。地面がやわらかい!白い靴は避けたほうがいいですね。

写真だけ見ていると、ここはどこだろうと思ってしまいますが、正真正銘フランスです!プロヴァンスって本当見所が多い。行く所行く所、発見ばかりです。ぜひいろんな場所をドライブしてみたいものです。

Gordesゴルドゥ(プロヴァンス)

Avignonといえばアヴィニョン橋や教皇捕囚などで有名ですが、私たちはそこから東へとさらに進み、のどかなプロヴァンス風景が広がる小さな町Gordesを訪ねてみました。

Gordesへの行き方
パリからTGVでAvignonまで向かい、そこから車で約40分くらいでしょうか、1時間もかからなかったと思います。
詳しい地図はAvignon-et-Provenceのサイトにて。

Gordesの歴史

ローマ時代、ゴルドゥはoppidum(主要居住地)として存在しており、そこに住んでいたのはVulgientes あるいはVordensesと呼ばれる民族。そこからこの町の名前が来ています。ケルト語であるVordensesはGordensesと発音され、それからGordae、Gordneとなり、最終的にGordaフランス語のGordesと形を変えて現在に至ります。 the Gallo-Romanガロ・ローマン時代においてだいたい「V」は「G」に取って代わったそうです。

1031年、城が築き上げられ、ラテン語のCastrumが付け足され『Castrum Gordone』となります。このことから古代ローマ人たちが軍事防衛のためにこの城を建てことが分かります。さらに1123年に強化工事がなされます。

ほかの町についても言えますが、防衛のために丘の上に町を築き、常に周りの敵から身を守ってきました。そのためGordesの村は丈夫で厳格な雰囲気を今でも保っているようです。

宗教戦争、疫病、二度の地震、第二次世界大戦時の爆撃、さまざまな困難に耐えて生き延びてきました。

またGordesはフランスで一番美しい村のひとつとして認定されています。


村へアクセスする前に、フォトポイント発見。たくさんの人が車から降りて写真を撮っていました。でも高所恐怖症の方は気をつけて。下は深い谷間です・・・。近くに立っていた家のバルコニーは最高の眺めですが、かなり怖い・・・(右写真)。


写真ではなかなか伝わりませんが、パノラマ風景です。


そしてGordesの街中へ。迷路のように入り組んだ通りにお店やカフェが並んでいます。中央に広場がありそこに駐車場があります。右の写真がゴルドゥ城。


ゴルドゥの町はすべてが石でできています。電話線やケーブルなどはすべて地下に。


もちろん石畳の道です。とても雰囲気があっていいですよ。

Le village des BORIES ボリー村

さあ、そこから車ですぐのところにある村、ボリー村。村と言っても人はもう住んでいません。

その歴史はLiguriansと呼ばれるこの地域に住んでいた民族にさかのぼると信じられています(3000年以上の歴史を持っているそうです)。Boriesとはまた『Gallic huts』としてよく知られており、mortar(しっくい)を使わず乾燥した石のみで建てられています。1969年から1976年の間にこの村が復元され、最後の住人が19世紀のはじめにここを去った時の状態のままここに残されています。すごいですよね、1800年代まで人が住んでいたなんて・・・。


この村に着くまでの通りにもたくさん石造りの家が並んでいました。そちらはもちろん人も住んでいます。同じく石が積み重ねられて作られた通りの壁も見ごたえがありますよ。


全て石のみで建てられています。うまく積み重ねられていますよね。


中はと言うと、こんな感じです。当然ながらとても質素で狭い。ここで実際人が生活していたと思うと、当時の生活の厳しさを感じます。


左写真は石造りのOVEN(オーブン)!どんなものを焼いていたのでしょう?右写真は豚を飼っていた場所!


そしておもしろいのは、壁の一番上には石板が横ではなく縦に積んであること。よーく見てみてください。

Village des Bories
毎日朝9時から日が暮れるまでオープン

Gordes (英仏語)

周りは豊かなブドウ畑やりんご畑が広がる中、この一帯は石石石。不思議な景色です。これもまたプロヴァンスの風景なのでしょう。

アルベール・カーン博物館/庭園

天気のよい9月の第1日曜日。今日は美術館や博物館が無料の日!お昼からブローニュにあるアルベール・カーン庭園へ足を運ぶことに。

アルベール・カーン(Albert Kahn 1860~1940)という人物は南アフリカの金鉱とダイヤモンド鉱への投資で成功し、自らの銀行を設立。その後「地球映像資料館」を設立し、世界中50カ国に写真家を派遣し多くのカラー写真やフィルムの撮影をしました。しかしながら1929年に起きた世界恐慌で破産してしまい、映像資料館は買い取られ、現在このアルベール・カーン博物館でそれらの貴重な写真が見られるそうです(私が訪れた日は改装中のようでした)。また彼は日本との関係もあります。銀行を設立した当初、急激に発展を進める日本に投資をし成功を収めました。明治時代の渋沢栄一と交友もあったそうです。

アルベール・カーン庭園
そんな日本との関係もあり、庭園には日本庭園が設けられています。ブローニュの森南西に位置する一角にこんな日本の景色が見られるとはちょっとビックリ。

まずは入り口から右手に向かって歩き始めました。するといきなり日本の伝統的家屋が立ち並び、日本人にとってはなつかしい風景が目に飛び込んできます。

Village Japonais(日本の村)

建物は全て日本から送られてきたものだそうです。屋根の修復が必要らしく2011年から工事が始まるようです。

砂まできちんとアレンジされているのには驚きました。これがきっと日本のイメージなんでしょうね。

Jardin Anglais(イギリス庭園)

大きな池が広がり、雰囲気がまったく違います。

Foret(森)

イギリス庭園を抜けるとそこからは森が広がります。小道があちこちと連なり、どんどん歩いて行きます。結構広いですよ。

都会にいることを忘れそうな空間です。

Jardin Francais(フランス庭園)

綺麗に区画分けされたフランス庭園。日本庭園とは対照的です。バラ(ちょっとシーズンが遅かったかな9月だと)や果物がたくさんなっていました。

温室もありましたが残念ながらこの日は閉まっていました。また次回に。

Jardin Japonais(日本庭園)

そして最後にたどり着いたのが日本庭園(このお隣が出発点だったVillage Japonaisです)。

池には錦鯉がたくさん泳いでいました。こども達がえさをやって喜んでいます。あ、おじさんも喜んでいました。

お昼過ぎすぐに行ったので人もまばらでしたが、だんだん人も時間がたつに連れて増えてきました。特に第一日曜日だったからかな。お散歩がてらに出かけてみてはいかがでしょうか。パリではなくパリのお隣ブローニュ市の中にある日本発見です。

アルベール・カーン博物館/庭園への行き方

Albert-Kahn, Musée et Jardins
Service des Publics
10-14, rue du Port
92100 Boulogne

メトロ10番線Boulogne-Pont de Saint Cloud(10番線の終点です) 庭園はメトロから歩いてすぐ。
バス72番(Hotel de Ville やLovreから)、52番(Operaから) 同じくBoulogne-Pont de Saint Cloudで止まります。

アルベール・カーン博物館/庭園 オフィシャルサイト

入場料金 1,5ユーロ 月曜休館

フォンテーヌブロー宮殿

パリの南東郊外55kmに位置する町Fontainebleauフォンテーヌブロー。そしてその町に構えるのがフォンテーヌブロー宮殿。フランスでも最も大きな宮殿の一つとされ、1981年にユネスコ世界遺産にも登録されています。今日ある宮殿の姿は多くのフランス君主による築城の成果であり、その始まりは16世紀初頭のフランソワ1世にさかのぼります。

パリからはGare de Lyon〈リヨン駅)から電車が出ており約45分ほどでFontainebleau‐Avon駅へ、そしてそこからはフォンテーヌブロー宮殿行きバスで15分。詳しくはページ下のフォーンテーヌブロー市オフィシャルサイトにて詳細+地図が載っています。

フォンテーヌブロー宮殿の歴史

1169年: フォンテーヌ・ベル・オー(Fontaine Belle Eau)あるいはフォンテーヌ・ブロー(Fontaine Belleau)と名前が残されている。

12世紀後半: この敷地にあった古い城はすでにルイ7世(1120‐1180)よって利用されており、カンタベリ大主教であったトマス・ベケット(Thomas Becket)が彼のために礼拝堂を捧げている。

13世紀: またこのフォンテーヌブロー城はフィリップ2世(フィリップオーギュスト1165 ‐1223)やルイ9世(1214‐1270)のお気に入りの城でもあった。

14世: フィリップ4世〈端麗王1268‐1314)がフォーンテーヌブロー城にて誕生。逝去もこの城にて。

15世紀~16世紀: フランソワ1世(1494‐1547)により現在のような建物へと造りかえられていきます。フランソワ1世のもと、Gilles le Bretonという建築家が南門Porte Doree(黄金の門)を含むCour Ovale(楕円宮廷)のほとんどを建築。また王は建築家のSebastiano Serlioをフランスに招き、Leonardo da Vinci(レオナルド・ダ・ヴィンチ)も呼び寄せている。Rosso Fiorentinoによるフレスコでフランソワ1世のギャラリーは飾られ、これがフランスで建てられた一番最初の装飾ギャラリーとなった。

大まかに言うと、このフォンテーヌブローでルネッサンスがフランスへと流れ込んできます。

16世紀前半~中期: アンリ2世(1519 ‐1559)の治世において、Salle des Fetes(祝祭の広間)がイタリアのマニエリスム画家Francesco PrimaticcioとNiccolo dell’Abbatteによって装飾されます。「フォンテーヌブローのニンフ〈妖精)」は、宮殿装飾のために作られましたが、現在はルーブルにあるそうです。さらにアンリ2世とCatherine de Medici(カトリーヌ・ド・メディシス)により拡張建築がなされます。アンリ3世(1551‐1589)フォンテーヌ城にて誕生。

16世紀後半~17世紀前半: このフランソワ1世からアンリ2世までに築かれてきた城にアンリ4世(1553‐1610)は中庭を付け加え、名をCour des Princes(王の中庭)としました。その庭にはGalerie de Diane de Poitiers(ディアーヌ・ド・ポワチエのギャラリー)や Galerie des Cerfs(雄鹿のギャラリー)が設置され図書室として利用され、さらに木々で覆われた庭園に1200mの水路を設け、松やエルムの木、果樹などを植えるように命令します。ルイ13世(1601‐1643)フォンテーヌ城にて誕生。

1685年: ルイ14世により「フォンテーヌブローの勅令」発令。これによりナントの勅令が破棄されることになります。ナントの勅令とは、1598年アンリ4世によるもので、プロテスタント〈ユグノー)などに対してカトリックと同じ権利を与えるという勅令。

18世紀後半: 城の不運が始まる。フランス革命期に多くの調度品が売りに出される。国民のための資金を調達する目的と、ブルボン家が二度と贅沢な生活に戻れないようにするためである。しかしながら、10年も経たないうちにナポレオン・ボナパルトがこの城を彼の力のシンボルとして利用するようになります。荷馬車が通れるよう石畳のエントランスに作り変えさせたりこの城の修正を図り、ナポレオンによって現在我々が目にする宮殿が完成されます。

1814年: フォンテーヌブロー宮殿にてナポレオンが親衛隊に別れの挨拶をし亡命する。

こうして見てみるとさまざまな王たちがここフォンテーヌブロー宮殿で過ごしてきた様子が分かります。では、ここから中の様子を。


まず門をくぐり敷地内に入るとお城までの石畳の道が続きます。ここがナポレオンが近衛兵と別れを告げた「別離の中庭」。ナポレオンはエルバ島へ流されます。


横を見ても上を見ても隙間のないくらいの装飾です。こちらは「皿の間」と呼ばれ皿絵で飾られています。一枚一枚よーく見てみましょう。セーブル陶器博物館でも同じものを見ました。


扉の向こうに見える奥行きに圧倒されます。


フランソワ1世の回廊」。壁にはフランソワ1世の紋章サラマンダーとイニシャルFの文字が見えます。サラマンダーとは、《苦難に負けずに貫き通される信仰や熱情にとらわれない貞節、善なる火を燃え上がらせ悪なる火を消し去る正義を表す》とされています。


そしてこちら、「フランソワ1世の回廊」にあった絵。人が集まって話していたのを横で聞いていたところ、この白い像は力と知恵の象徴で足元のコウノトリが国王の母への敬意を表しているんだとか。一つ一つちゃんと意味があるんですね。フランソワ1世がイタリアから呼び寄せた画家ロッソ・フィオレンティーノ(Rosso Fiorentino)のフレスコ画だそうです。


皇后の寝室」〈左と中央)。歴代の王妃や皇后の寝室として使われてきたそうです。


ルイ13世の間」(右)。ルイ13世がフォンテーヌ宮で誕生。父アンリ4世がその誕生を祝って豪華に改装したんだそうです。テーブルの上にはセーブル焼きの壺、そしてそのテーブルにも工夫がしてあり座る人ごとに各引き出しが付いています。


次から次へと豪華な部屋が現れます。左写真は「マリーアントワネットの小部屋」。フォーンテーヌブローはもともと王たちの狩猟を楽しむ場所として城が建てられました。ルイ16世ももちろん毎年ここへ猟をするためにやってきたことでしょう。しかしこの時代には城の老朽化が進み、王の間が拡張され、王妃の小部屋が改装されることになりました。改装後はマリーアントワネット好みの装飾に変えられ、部屋にある家具も彼女用にデザインされたものです。「皇后の寝室」にあるベッドもマリーアントワネットのために作られたものです。右写真は「王の控え室」。


ナポレオン王座の間」(左写真)。ナポレオンがここに座っていたんですねえ。両端のポールの上にナポレオンのイニシャルNが見えます。そして中央写真は「ナポレオンの小部屋」と呼ばれ、この机でいろんな案を練っていたんでしょうね。机には仕掛けがあり一瞬で書類が隠せるようになっているそうです。ナポレオンはあまり寝ない人だったようで後ろに簡易ベッドが備え付けてあります。右写真はナポレオンが読んだであろう本が収められている「ディアナの回廊」。


そしてこちらお風呂(左)。ナポレオンはお風呂好きだったとか。「ナポレオンの寝室」〈中央と右)。こちらも落ち着いた緑色で統一されています。ここにおいてある椅子にも工夫がしてあります。暖炉にあたる側は手掛が低くなっており、もう片方は高くなっています。よく温まれるように工夫してあるんですね。


会議の部屋」(左)。そして赤で統一された「退位の間」(右)はナポレオンが退位するときに書類にサインをした部屋だそうです。


そして途中みつけたおもしろい一品。中央は秒針と分針の付いた普通の時計なのですが、その周りに曜日だの月名だの、うるう年だの、太陽、月の位置だの星座だのといろんなものがくっついています!


トリニテ礼拝堂」。左は城に入ってすぐのところで、礼拝堂を見下ろすような感じ。右は下から見上げた様子です。元は聖王ルイが建てた聖堂を三位一体修道会(トリニテ修道会)が引き継ぎました。ここで国王と王妃が毎日ミサに参加していたんですね。


さあ、外に出てちょっと休憩。たくさんの部屋を見終わって、主人と一緒に歴史話。ヴェルサイユ宮殿もそうですがこれだけの財力が一部の選ばれた人間に集中するなんてものすごいことですよね。そんな時代があったからフランス革命につながるのでしょうが。歴代王が居住した宮殿ということで、なんとなく一度にいろんな時代を駆け回ったような一日でした。

さあ またバスと電車でパリに戻ります。ちょっと大変だけれども時間があればぜひ一度。

関連サイト
フォンテーヌブロー市オフィシャルサイト

フォンテーヌ宮殿オフィシャルサイト

以上参考ウィキペディア、宮殿内ガイドより

セーヴル陶器博物館

パリの南西郊外セーヴルにあるMusee National de Ceramique(陶器博物館)。

メトロ9番線のターミナルPont de Sevresを出てセーヌを越えるとその建物が見えてきます。

入り口に大きな陶器の長細い壺が立っていて、中へ入る前にそこで立ち止まってしまいます。入ると受付と売店スペースがあり、入場料金は4.5ユーロ。

まずは一階部分。いろんな国の古い時代の陶器が並んでいて、描かれている絵など少しプリミティヴなものもあり興味深い。フランスはもちろん、スペイン、イタリア、オランダ、オアーストリア、中国、イスラムなどの作品が展示。

そして2階へ上がると、まず巨大な陶器の作品に驚かされます。広い空間にそびえるような大きさ。近寄って倒してしまたっらどうしようと心配になってしまったり。そして次の部屋には国別のコレクションが展示してあり、例えば、フランスの中でも、プロヴァンス焼きなど地方別になっているのがおもしろい。プロヴァンス出身の主人が「プロヴァンスは他の地域と違ってハチやチョウがたくさん描かれているね」と。確かに。プロヴァンス陶器に描かれているくらいのかわいらしい虫ならいいのですが、中には結構リアルな虫が描かれているお皿があって、この上に料理?と・・・・(どの国か忘れてしまいましたが)。もちろん高級な銀食器などのコレクションなどもあり、どれもこれも見ていて楽しい。それから日本からの陶器作品も展示されていましたよ。日本の作品は飾ると言うより癒すというか、見ているとふーっと吸い込まれそうな作品が多い(表現が抽象的ですみません)。主人も家にあったらいいなあと思うのは日本の作品だと。

思っていたよりも広いスペースで作品も多く結構楽しめました。

さて、このセーブル陶器博物館の歴史ですが、結構古い(当然ですが)。

まず、ルイ15世の統治時代に王の愛妾であったMadame de Pompadourの影響を受け、1740年に陶器アトリエがヴァンセンヌに設立され、さらに1756年このアトリエがセーヴル(Madame de PompadourのBellevue宮殿近く)に移され1759年に王立窯となります。

博物館の創立はAlexandre Brongniart(1770~1847)という人物と大きく関係があり、彼はGeroges Cuvierと協力してパリの周辺地域の地質学の調査を行なった地質学者であり鉱物学者、あるいは科学者、動物学者という紹介もあります。彼の父は建築家のTheodore Brongniart、また彼の息子Adolphe Theodore Brongniartは植物学者でもありました。

少し話がずれますが、父親のTheodore Brongniartは1804年にナポレオン・ボナパルトにペール・ラシェーズ墓地の設計を任され、さらに1807年にはパリ証券取引所のデザインも任されています。

Alexandre Brongniartは、パリで生まれ、鉱物学校の教師をしていたが、1800年、当時内務大臣であったLucien Bonaparteによってセーヴル陶器工場のディレクターに任命される。セラミックの化学と鉱物学エンジニアのつながりがまさに彼にとって最高のポジションへと導いたのです。彼のすばらしい能力のおかげで彼は政権が変わる中、47年間セーヴルを運営管理しました。

また爬虫類の新しいクラス分けを紹介したり、鉱物学や陶器芸術の論文なども書いています。

Brongniartはセーブル陶器工場のディレクターでありまたセーブル陶器国立博物館の創設でもあります。1823年には、Royal Swedish Academy of Scienceスウェーデン王立科学アカデミーの外国人メンバーに選ばれています。

そして、1876年第3帝政時代にはこの陶器工場と博物館が政府によってサンクルー公園の一角に移されます。現在もこの博物館の裏のアトリエで陶器が作られており、ここで作られたものをセーブル焼きと言います。売店でお土産用に売られていますがかなりのお値段ですので私は見て楽しむだけ・・・。

Musee National de Ceramique オフィシャルサイトはこちら

この博物館の右となりには広大なサン・クルー公園が広がっています。時間のあるときにゆっくり足を運んではどうでしょうか。観光サン・クルー公園のページも参考に。

以上ウィキペデアと博物館パンフレットより訳/要約