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フランス人も花粉症

長いヨーロッパの冬が終わり暖かく明るい春がやってこようとする時期、ウキウキする気持ち半分、憂鬱な気持ち半分で過ごす人は少なくないはず。そ う、毎年日本でも話題にされる花粉症の季節です。

私自身日本にいる頃、大変悩まされました。特に目がかゆくなり、鼻が詰まったりして、、、。それからフランスに移り、おそらく植物の種 類が変わったからでしょうか、症状はかなり軽くなりました。でも、私の場合花粉に対する許容量が小さいのでしょう、毎年確実に目のかゆみが広がり、今年はくしゃみの数も増えたと思います。

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フランス人も通りでよくくしゃみをしたり、鼻をブーっとかんでいる人が目立ちます。主人も花粉症ではないのですが、天気のいい日には花粉が飛んでいるのを感じると言っています。日本だとマスクしたりして予防ができるのですが、こちらはマスクをつけると重症患者と思われるそうで、外でつける人はいませ ん。目薬も日本のように簡単に薬局で買えるというものではありません。医者からの処方箋が必要になります。外出するときは、花粉を吸い放題ということにな ります。

こういった状況で、フランスでも年々花粉症をはじめいろんなアレルギーにかかる人が増加しているそうです。

植物、動物、食品などが原因で喘息、花粉症、鼻炎、結膜炎、湿疹などの症状が広がり、現在フランスでは千五百万人が何かしらのアレルギーにかかっているだろうとされていてるそうです。またフランス人の40%がこういったアレルギー症状をもつ可能性を持っているとも言われています。

生活水準が上がり衛生に対する関心が強まる社会では人間は抵抗力を失い、また医学の発展や抗生物質の過度の使用により免疫システムが本 来のように機能しなくなってしまった、というのがよく言われる現代人の特徴ではないでしょうか。

食生活の点から見ると、食事の準備に費やされる時間が減り、惣菜などできたものを利用するケースが増え、そのことがさらに消費者をアレルギーにかかりやすくさせる要因になっているそうです。フランス人は世界各国のさまざまな料理を食べるようになり、時にエキゾティックなスパイスや果物でアレルギー反応を起こす人もいるそうです。食品アレルギーについて言えばフランスでは5年で2倍に膨れ上がったそうです。

住居問題では、我々の住む居住空間はどんどん小さくなり、またしっかり隔離されいつでも暖かく保たれるようになりました。そのことで湿 度も上がり、ダニが住みやすい環境を作り上げてしまいました。さらにはペットを飼う人も増え、今日では2世帯に1件以上が動物を飼っている計算になるそう です。特にパリはどこを見ても犬犬犬ですからね。

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食品アレルギー:フランスでは二百万人が食品アレルギー症状を持っている。大人よりも子どもに多く、15歳まで の子どもは動物が元になっている食品、大人は逆に植物性の食品でアレルギーにかかることが多い。(卵白、牛乳、落花生、魚)

花粉症:フランス語ではrhume des foins(干草の風邪)、英語では hay fever(干草熱)とか専門用語でpollinosisというのがありますね。英語で花粉を pollen、フランス語でpollensと呼ぶところから来ているのでしょう。フランスでは人口の25%がかかっているとされ、毎年全ての年代において患者が増えているそうです。

動物アレルギー:フランスの人口の約2.5%がこの症状を持っています。一番多いのが猫アレルギー、そして一番強い症状が現れるのが馬やげっし動物(ねずみやウサギ)だそうです。

フランスも、日本のようにさまざまなアレルギーに悩む人がたくさんいるということですね。生活が豊かになったはずなのに病気が増えるなんて皮肉なことです。帰ったらうがいと手洗い、だけどそれが免疫力を下げているともいえるし、、、。難しい。 (以上参考:Directsoir)

カルカッソンヌ

フランスは南西に位置する町、カルカッソンヌ。「カルカッソンヌを見ずして死ぬな」と称えられるほどの立派な城塞都市です。今回私たちはお正月をこのカルカッソンヌで過ごしました。お天気は曇り。人もおそらくピーク時よりは少なかったのでは。でもそれはそれでまたひっそりとした城塞の雰囲気が楽しめてよかったです。

まずクリスマスで滞在していたマルセイユから新市街地にあるカルカッソンヌ駅へ到着。カルカッソンヌの町は城塞のあるシテとオード川と 呼ばれる川の対岸にある新市街地の二つの地区に分かれます。クリスマスでもらったギフト、最新機能の付いたデジタルカメラをポケットに、いざ出陣。石畳の上をゴロゴロとスーツケースを引っ張って歩きます。でも小さな町移動もそんなに時間がかかりません。頑丈な足があれば充分!町の中心をまっずぐ突き抜いて城塞(シテ)の方へと進んでいきます。

ホテルは城塞とオード川を挟んで反対側に建つTROIS COURONNESというホテ ル。眺めは最高です。上階はレストランで、朝食も含まれてます(私たちは寝てましたが)。部屋の窓からはぼんやり浮かび上がる夜景が満喫できます。私たちはホテル前にある川沿いの遊歩道まで出て行って写真を撮りました。そしてその川に架かる橋、Pont Vieux(古い橋)もライトアップされて、昼間の様子とはぜんぜん違います。


Pont Vieux(古い橋)と呼ばれる橋の上から取った城塞。左が昼間の様子。夜はライトアップで城塞が浮かび上がるよう。とてもきれいでした。中央と右の写真はクリックで拡大します


そしてPont Vieux。普段はどうなのか分かりませんが、人が全く通らずとても静か。ぼんやり浮かび上がる様子が幻想的。
左端の紫にライトアップした写真はクリックで拡大します

Pont Vieuxの歴史

  • Pont Vieux(ポンヴュ)と呼ばれる 石の古橋は、川上にかつて建てられていた封建時代の橋に代わり、ローマ時代の新しい橋としてその用地に建てられました。時代は14世紀に遡ります。橋の建設工事は1315年には進行中で、1320年ごろにようやく完成します。建設費用をまかなうために特別な課税も制定されました。またカルカッソンヌ橋の中央全体には12のアーチが並び、その直径は不均衡で、長さは10~14mとさまざまです。そこから推測されることは、そ架橋工事が資金に合わせてアーチを一 つ一つ順番に作っていったということです。
  • Pont Vieuxは石のアーチで二つの部分に分けられていたことがあります。つまりCiteシテとVille-Basseの二つの社会の交わりが制限されていました。これはカルカッソンヌの二つの都市の住民を頻繁に巻き込んだ内部抗争が原因でした。そしてその結果そこで平和条約が結ばれます。
  • 橋の外観は1820年以降にしか変化しません。当時は優雅な二つの歩道に付けられた頑丈で軽い欄干がありました。1436年には二つのアーチが崩れ落ち、その修理に加え他の数箇所の部分も1559年に手直しされました。さらにその後も手直しがなされますが橋の元の持ち味は失われることはありませんでした。そして1820年の修復工事で一番もとの形を変化させてしまうことになります。
  • 1999年には、政府の公的機関と連絡し合いながらカルカッソンヌ市とl’Architecte des Monuments de Franceが調査を行い、Pont Vieuxの東の最端とla rue Trivalle(トゥリヴァル通り)の入り口に当たる部分を引き立たせようというプロジェクトを立てることを認めました。
  • 東側の13番面のアーチを残した状態で、BarbacaneとTrivalle通りの間のアクセス傾斜路、そして建物正面と公園 の間にあるスペースがテラスとなり平らになりました。それにより、新しく植えられた木々の並ぶ遊歩道の影に駐車場として使用できる大きな見晴らしのよい広場が出来上がります。


Pont Vieuxの城塞(シテ)側には、遊歩道やピクニックができる広場があり、ちょっと一息つくのにいい感じです。私たちは朝ホテルの朝食を寝過ごしたので、ここでサンドイッチを食べることに。そしてやはり誰もいません。静かでした。


そしてPont Vieuxの西の端には小さなチャペルが建っています。この一見なんでもなさそうなチャペルにもちゃんと歴史があります。

Chapelle Notre Dame de la Santeの歴史

  • 公正証書によると、この小さなチャペルは1527年Jean de Saixの遺贈(寄付)によるお金でペスト患者救済のための病院施設創設のために建てられたということです。この戦略上とても重要な場所には常時ガードが 置かれ、周囲地域に対し城壁としても機能していきます。
  • 今日では丸天井に刻まれた工事完了の年を伝える1697年の数字、そして古いドアの跡が見られます。
  • 川の氾濫が城壁にダメージを与えます。現代において多くの信者や観光客が訪れるように、当時もまた、このチャペルには多くの人々が訪れまし た。この病院に宿泊許可される人の数が増大していく中、さらに多くの信者を迎えるためにこのチャペルを再建築する計画を立てる必要が出てきます。そして現職の教会管理人たちによってプランが進められていきます。1685年チャペルの増築が認められ、また川の氾濫に耐えるために城壁もすでに建てられていました。


それではシテへと向かってきましょう。城塞(シテ)への入り口は二つあります。Porte d’Aude オード門(オード川沿い)とPorte Narbonnaiseナルボンヌ門(川とは反対側)。私たちはナルボンヌ門から入ったのですが、オード門側からの景色も素晴らしかったので少し寄り道を。下から城塞を見上げるような形で迫力のある景色です。入り口前に立つ教会、Eglise Saint Gimerサン・ジメール教会(右上写真)

Eglise Saint Gimerの歴史

  • Eugène Viollet-le-Duc(ヴィオレ公爵)と呼ばれる若者がカルカッソンヌを発見します。それは彼が1831年ピレネー山脈遠征の時でした。イタリアへ赴いたあと、彼は1839年おそらくそこを再び訪れています。1843年に彼はSaint-Nazaireの修復工事のレポート編集を任され、さらにその翌年、その工事の監督を任されます。それ以来、カルカッソンヌとViollet-le-Ducヴィオレ公爵の関係は彼が1879年に亡くなるまで続くことになります。
  • Viollet-le-Ducのカルカッソンヌにおける4つの作業場の中で、Saint-Gimer は一番知られていません。Viollet-le-Ducは当時建築家として活躍したかったにもかかわらず、今では修復家として考えられることが多い。彼は彼の経歴において3つの教会しか現実に仕上げることができなかったのです。それはSaint-Denis de l’Estrée、Aillant-sur-Tholon 、そしてカルカッソンヌのSaint-Gimer。
  • この教会は1854年から1859年にかけて建設されました。質素であることが掲示された目的の一つでした。なぜなら Viollet-le-Ducは限られた予算の範囲で本物の建築を実現したかったからです。
  • Saint-Gimerは一つの身廊と二つ側廊、二つの香部屋で閉ざされた多角形の後陣から成り、すべてポーチ(玄関口)から続 きます。質素な小教区教会という計画のため、Viollet-le-Ducは質素さ素朴さを優先的に考慮します。またゴシック様式のレパートリーに訴えながらも、新しいフォームも取り込んでいきます。

Porte d’Aude オード門の 歴史

  • シテ城塞の切り立つ斜面の下にあり、その城壁はオード川岸の周辺地域を守っていました。この城壁は13世紀に起源を遡ります。
    オード門(かつてのporte de Toulouseトゥルーズ門)、この門は12世紀にVisigothsの城壁に空けられました。アーチ形で、中は使用された材料や機械のため当時の雰囲 気が残ります。


こちらがPorte Narbonnaiseナルボンヌ門。Porte d’Aude オード門からぐるりと城塞の反対側に位置します。途中大きな駐車場を横に丘を上がっていきます。

Porte Narbonnaiseナルボンヌ門

  • ナルボンヌ門は城塞の東側面に位置し、威信を高める要素と快適さを目的とした要素をさまざまな軍事設備に調和させた複雑な作品である。二つの 高い塔は城塞でつながっており、そこは二重落とし格子戸システムで守られた門が整備されている。この防御設備は通路に取り付けられた撲殺用武器や異なる階に置かれた銃眼により完成される。銃眼からは弓射手が正面や垂直に攻撃することができた。
  • 16世紀から、城塞は徐々に力の象徴を失います。そこからその名声を記録するための伝説がいくつか現れます。そしてこれらの物語は Charlemagneシャルマーニュ(カール大帝)に関連した作品群の一部をなしています。その中でも一番有名なのがDame Carcasの物語。サラセン人の占領下となっていた時、カール大帝が5年を超える攻囲攻撃をシテに対して行った。そして、夫の大公が なくなった後のシテ騎士団を率いたのがDame Carcas公妃カルカスであったという。さらに攻撃が6年目に入り、シテ内では食料も水も途絶えてきた。そこでカルカスは残っているものの一覧表を作ろう としました。市民が豚一頭と小麦を持ってきた際に、彼女にある考えが浮かびます。なんとその豚に小麦を食べさせて太らせ、それを塔から町の外に捨ててしまうのです。これを見たカール大帝は、市内にまだ充分な食料があるに違いないと思い、撤退していきます。そしてその勝利を知らせるべく、町中の鐘を鳴らせま した。そして撤退中の大帝軍の一人が、《 Sire, Carcas te sonne 》と書き記します。カルカスが鐘を鳴らしている。つまり Carcas sonneでカルカッソンヌ。これが市の名前の由来です。ナルボンヌ門、右手に見える像がカルカス(左写真)。

では、ここらカルカソンヌ中世城郭都市(シテ)の中へ入っていきましょう。


Joseph Poux ジョセフ プー (1873-1938)
城塞に入るとまず目に付くのがこの石碑。Joseph Pouxはこの城塞都市を研究した歴史家です。

カルカッソンヌ2500年の歴史

  • 紀元前6世紀にガリア人が住居を築き、ローマ時代に都市として発展していく。
  • 紀元前3世紀、異国人の侵入を受け、頑丈な城壁が作られ始める。
  • 西暦435年、西ゴード王国の最北端国境都市となる。
  • 西暦725年から759年にかけてイスラム教徒に占領される。ついでフランク族の支配が始まる。
  • 封建時代、カルカッソンヌからニームにかけてトランカヴェル王朝が誕生。 11、12世紀、トゥールーズ家とバルセロナ家が競い合う時代にトランカヴェル王朝は重要な役割を果たす。
  • 1208年アルビ十字軍を募り、異教の一掃を図る。1209年レイモンロジェトランカヴェルが十字軍に降伏、シテは1226年に王領となる。 レイモンドトランカヴェル2世は1240年にしての奪還を計画するが失敗。
  • 1695年のピレネー調印まで、フランスの対アラゴン王国戦略都市として重要な役割を果たしていく。
  • 1997年ユネスコ世界遺産に登録。


城壁は二重に補強され、その長さ3000メートル。52塔を数える。


こちらは敵が侵入した際に入り口をふさいでしまうという仕掛け。


Grand Puits (大井戸)
シテにある22の井戸の中で一番古いものして知られる井戸。その縁(へり)は14世紀のもので、円柱と鉄具はルネッサンス時期にさかのぼります。伝説によるとアッティラの到来に恐怖を感じた西ゴード人がソロモン寺の宝をを隠したかもしれないという。幾度となく探されたが、発見には至らず。


途中ちょっとおなかがすいたのでクッキーやさんに立ち寄りました。店内はいろんな種類のクッキーやチョコレートでいっぱい。自分で好きなものを選んで袋につめます。

他にもお土産やさんや、カフェ、レストランなどもあります。


Basilique Saint-Nazaire サン・ナゼール大教会堂
教会の壁から浮かび上がる顔がとても怖い。きっと魔よけですね。

Basilique Saint-Nazaire の歴史

  • 925年に初めてSain Gimerサン・ジメールの司教任期中に言及され、1096年6月12日Pape Urbain II (法王ユルベン2世)により祝福の式が行われました。この教会は古代キリスト教教会の跡地に建てられ、アーチのついた高い屋根を持ちます。さらに1267 から1330年の間、ゴシック式に変えられていき、1801年に教会としての地位を失い、1898年に大教会堂となります。こちらの教会も Viollet-le-Duc(ヴィオレ公爵)によって修復されました。

時間があったので、シテの周辺を探索。なんだかおもしろいものをいくつか発見したのでご紹介します。


Maison dite “de Montmorency”
Montmorency(モンモランシー)という名の家。16世紀に建てれ、一階は石でできており、上3階は木でできています。木は砂でできた壁をサポートする役割を持っています。

右の写真は同じ通りでたくさん見かけたおもしろい雨樋。口から雨水が流れてくるようになっています。何の動物なんでしょう?竜の様だったけど。


Notre-Dame de l’Abbabye
Maison dite “de Montmorency” の同じ通りに、不思議な壁画が現れます。一枚一枚何か宗教的なものを表しているのですが、中には奇妙な生き物のような。足が3本ある?

Notre-Dame de l’Abbabye の歴史

  • カルカッソンヌのクリスチャンが初めて集まった場所とされます。
  • 8世紀に、Sainte-Marieに捧げられていた頃、サラセンの攻撃によって破壊されてしまいます。
  • 十字軍遠征の発表をした後、Pape Urbain II (法王ユルベン2世)が1096に祝福の式を挙げます。
  • 1240年にRaypond II Trencavelレイモンドトランカヴェル2世により再び破壊されます。そしてその7年後に再建築されますが、さらに地域的な争いが起こり、その度にダメージを受けます。宗教団体がそのうち定着し、教会内に庭園を作りました。


そしてこちらは新市街地で見つけたとおりの名前。RUE TRANQUILLE ルゥ トランキール 静かな通り。そのままです。本当に静かなお正月でした。

そしてお正月の夜、なーんにもレストランの予約もせずにやって来た私たち。駅近くのブラッスりーでお正月メニューがあり、そこでカクテルサービスとチョコレートのプレゼントをもらってホテルに戻りました。フランスの南西部といったらおいしいもので有名。ここのブラッスリーでも充分。大好物の鴨肉を食べてきました。クリスマスでさんざんお腹を膨らませているのに、また食べ過ぎてしまいました。

ちょっと天気は曇りでしたが、充分楽しめました。1997年に「歴史的城塞都市カルカソンヌ」の名で世界遺産に登録されており、毎年多 くの観光客が訪れるそうです。フランス国内で見ると、モン・サン=ミシェルに次いで二番目に観光客が多いんだそうです。きっと夏のヴァカンス期にはすごい 人出になるんでしょうね。正月に外出する人は断然少ないので、今回私たちのプランはのんびりしたものにできました。小さな町なので一日くらいで充分一通り 見て回れます。

カ ルカッソンヌ観光オフィス 詳しい説明や地図などがあります。ブックレットなど無料で送ってくれました(フランス国内)。が、よく見たらHP上でダウンロードできました。

(以上 カルカッソンヌ観光オフィスのガイド、一部Wikipediaより 訳aki)

コーラ

海外に住むとお店で売っているドリンクの種類が日本と比べるとかなり減ってしまいます。フルーツジュースか炭酸飲料。日本のお店にずらっと並ぶあの飲み物の缶やボトルの景色はすごい。それから自動販売機もすごい。うちの主人はその自動販売機に感動し写真を撮っていました。。。ボタンを押すと音楽まで流れてくる!さらに当たるともう一本!!

で、本題に入ります。昨日の晩、ちょっと風邪気味ということもあり突然コーラ(cola)が飲みた くなり、主人に英語でI want to drink some coke.と、お願いしてみた。ちょっと聞こえな かったのでもう一度フランス語でJe veux un peu de coca!と、病気をいいことにわがままです。

そこで、ふと、なんで同じ飲み物なのにそれもCoca-Colaという商標名なのに、こんなに呼び方が違うんだろうかと。フランス人は Coca-Colaの先頭部分coca、日本人は後半のcola、そして英語なのにCoca-Colaではなく別のcokeを使っている。おもしろい。

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そこで、コーラ?の歴史をちょっと調べてみました。

Coca-ColaはまずJonh Pembertonという薬剤師によって1886年には開発されます。もともとは頭痛に効く薬として売り出されたのですがその期間は短く、その後すぐに健 康飲料として急速に市場に出回ります。

そしてこのCoca-Colaという名前はJonh Pembertonの帳簿係であったFrank Robinsonによってつくりだされました。Cocaはコカの葉エキスからとられたもので、Colaはコーラの実からきています。コーラの実とはアフリ カ産の木の実で、薬的な役割を果たしています。そしてCoca-Colaという名前は1887年に商標登録されます。

ところで現在のCoca-Colaと開発された当初のCoca-Colaとは原材料に違いがあります。コーラの実は昔と変わらず使用さ れていますが、コカの葉は入っていません。コカとは名前からも推測がつくようにコカインのもとで、19世紀の医療商品にはよく使われていた材料です。19 世紀の後半にこのドラッグの危険性が明らかになってきた頃、Coca-Cola製造者たちは徐々にコカの量を減らし、1929年には完全になくなります。

そしてCoca-Colaの省略形Cokeは1909年に初めて記録されています。Coca-Cola社はCokeという名前が他のド リンク類を含めた一般的な呼び名になってしまうことに反対しCoca-Colaとフルネームで呼ぶよう働きかけてきましたが、この非公式名は時に他のソフ トドリンクと混同されて使われることもあります。また薬物コカインも 1903年以来Cokeと呼ばれています。  (以上wiki name.comより 訳 aki)

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つまり、英米人たちは「コカイン」とも意味するニックネームCokeでCoca-Colaを呼び、さらに現在のCoca-ColaにはCocaが入っていないのにフランス人はCocaと呼んでいる。そしてCocaも「コカイン」を指すことになる。すると日本人のColaコーラと呼ぶのが一番しっく りくるような気がするのですが、どうでしょうか。

フランスでコーラを頼むときはもちろん、「Colaコーラ」ではなく「Cocaコカ」といいます。「コーラ」って言ってもいいじゃないと主人に言うと、「でもどのコーラか分かんないじゃない」と、またややこしい話になってしまうので、やっぱり「Cocaコカ」にしておきましょう。そう、 Colaコーラと言ってしまうと、そのドリンク類の総称になってしまうので、PepsiペプシなのかCoca-Colaコカコーラなのか区別がつかないと いうことになるそうで。。。でも2つくらいしかチョイスはないんじゃない。。。

でも、確かに以前、「Cocaコカください」と言ったら、店員さんに「ごめんなさい。Pepsiペプシしかないの。」と言われたことが。ちょっと笑ってしまいましたが。ということはPepsiペプシがあればPepsiペプシと言うべきなんですね。日本語のColaコーラと言うのはやっ ぱり日本語らしくなんとなくぼんやりした存在だということがよく分かります。Coca-ColaもPepsi-ColaもColaコーラなのです。

と、ややこしい説明でしたが、とりあえず、お店にPepsiペプシしかなくても、Cocaコカと言えば、やっぱりフランスでもCola コーラが出てくるので、フランスではCocaコカと呼びましょう。

フランス人は犬がお好き

フランスというかパリは本当に犬ばかり。これまで猫を見たのは2回くらいでしょうか(猫は南仏ですね)。でも犬は毎日目にします。
たまに大きな犬とすれ違う時にドキドキしたりしますが。

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Dog’s Bar : オペラ通りから少し細い路地に入ったところで見つけた犬のバ-です。

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建物の中には“人間用”のバーもちゃんとありました。

本当に犬が大好きなんですねフランス人。どこに行っても犬と一緒です。通りを歩いていても、公園に行っても、カフェに行っても、スーパーに行っても、どこでも一緒。

日本人の感覚からいうと、スーパーなどに犬を連れて入るのはちょっと気が引けますが、こちらでは野菜コーナーだろうとお肉のコーナーだろうと犬と一緒に買い物をする人を見かけます。犬のしっぽがチーズに当たっているのを見たりすると、やっぱり買う気がなくなりますが。入れない場合はお店の入り口で待っている賢い犬もいます。

健康診断で行ったドクターオフィスでは、犬が走り回っていましたね…そこではい検査するから服脱いでと言われてかなり驚いてしまいました。

また、あるファストフードのお店で食べていたところ、犬を連れた中年の男性が急に、なんてことだ! と言って立ち上がりました。するとプーンと尿の匂いが… 犬が店内で用をたしてしまった模様…。

電車の中でも、いましたよ、巨大な犬が…。通常地下鉄には小型犬など条件付きで乗車を許可される場合もあるのですが、そんなルールはあってもないようなもの…。一度、ある乗客が大きな野良犬のような犬をロープでつないで入ってきました。口には口輪がしてあり、見たからに怖い…。乗車してくるなり他の乗客の買い物袋を嗅ぎ出し、床に寝そべったり、ついには車内の人の体につきまとい始めるではありませんか。もちろんその人は怒っていましたが、飼い主は知らん顔。

ホームレスが犬を飼っている場合もあります。この間は、通りで通行人の連れていた犬に襲いかかっているのを目撃。かなりショックでした。実際、こういった凶暴な犬が小さな子供を襲ったりするというニュースもたまに聞きます。気をつけましょう。

さて、犬と言えば、パリの大きな問題の一つ、その犬の糞です。道のあらゆるところに犬の落し物があるので、パリに来たら下を向いて歩かないと 本当に危険です。飼い主も処分しようなんて気はまったくありません。数年前には市が犬の糞処分に大きな吸引機のつ いた車で掃除をしていたらしいのですが、そうすると飼い主が全く責任感を感じず、悪循環ということで廃止になってしまったということです。

観光客で賑わっているような所では、お店の人が掃除しているので(お気の毒に)、旅行で訪れるくらいなら「あこがれの風景」は「あこが れ通りの風景」。でも実際住んで生活し始めると見たくないものまで見えてくるものです。

この間は横断歩道の上に糞が山のように積んであったのを目撃(汚くてすみません)。なぜ横断歩道のど真ん中にそんなものが残されているのかが不思 議でたまらないのですが。朝起きて外出する時、アパートの目の前に糞が落ちているのを見るのも気分が悪い。でも犬が目の前で用を足しているのを見るのは もっと気分が悪い。以前住んでいた隣の犬はアパートのエントランスホールで糞をしていくし。それをそのままにしておく人の考えも理解できない。誰かが糞を踏んでしまった 跡は、またこれもグロテスク。何とか靴から取り除こうと数メートルにわたり糞のパレード。それが複数の人間になるとその周辺はたちまち危険地帯に(汚くて すみません)。

ちゃんと躾のいっている犬は本当に賢いんですけどね。かわいい犬もたくさんいるし。私個人もどちらかというと犬派なのでいろんな犬を見 かけたりするのは楽しいのですが。やっぱり飼い主の躾からですね。

moncaca
住宅街で見つけたサイン。[JE RAMASSE ] (私は拾う)なのですが、
誰かが落書きを。[MON CACA](私の糞)

***対策としては、パリでは犬の糞を回収しないと最高450ユーロの罰金がかかることになっています。犬のフンで汚れた通りをきれいにしようとパリが3年にかけて犬の飼い主に訴えかけてきた結果、60パーセントの飼い主が犬のフンを拾うと答えました。ちなみに毎日出される犬の排泄物は 16トン(2005年)

***2009年、路上の糞に対する罰金制度が、うまく行っているのかどうか疑問に思う今日この頃。また最近ひどくなってきているよう な。そこでパリ市から出されたこんな広告を発見。


《汚い?パリも同じだよ》
クリックすると拡大しますが、かなり汚いので要注意

***2014年ページ更新。相変わらず汚いパリです…。

関連ページ

ペット問題

あけましておめでとう

あけましておめでとうございます。フランスへ来てまた1年が経ちました。あまりいいニュースのない近年ですが、2009年は少しでも多くいいニュー スが聞ける年になるといいですね。

毎年年末から仕事やクリスマスショッピングなどで急激に忙しくなるのですが、去年は疲労を減らすために、TGVではなく飛行機を使って マルセイユ(主人の実家)に向かいました。TGVでマルセイユまで約3時間(よく遅れます)、飛行機で1時間ちょっと。空港までのタクシー代を入れても断 然飛行機のほうが安かったし、人出も避けられて、プラスドリンクサービスもついていてとても良かったです。

マルセイユに着くと快晴。それまでの忙しさから解放されほっとするような感じでした。飛行機の中からは途中アルプスや地中海の海岸線が 眺められたし、今までなんで飛行機を使わなかったんだろうと。。。

マルセイユは12日間の滞在。また今年もお母さんがおいしいものをたくさん作ってくれました。

dinnerdinner
左は鴨肉、マッシュルームとベーコンのソース。
右は羊のお肉、お肉の間にはガーリックが挟んであり
またハーブの味もまざってとてもおいしい。

dinnerdinner
手作りキッシュ。
左はプロヴァンス風でトマト、チーズ、オリーブ、アンショワ。
右はシンプルなベーコンと野菜。
このキッシュを食べるとお店で売っているキッシュは食べられなくなります。

cheese cake
毎日こんな感じで食事がどんどん出てきて、
さらにフォアグラ、チーズ、デザートとオンパレード。
さらにクリスマスの日はグレードアップ。

と、こんな感じで12日間、何もせずテーブルの席につき支給されるのを待つという感じで、どんどん胃が大きくなっていきました。プロヴァンス料理は パリとは違ってバターを使わないフランス料理、つまりオリーブオイルが主なのでまったくこってりしていません。これがパリだったらクリームだらけできつい かもしれませんね。キッシュなんかものすごくさっぱりしています。一年間頑張ったなあと、おいしいものを食べながら振り返ります。

そしてそんな贅沢な生活から、元旦はフランス南西部にあるカルカッソンヌという中世都市へ訪れました(また新しくページを追加します)。夜景がなん とも素晴らしくいい思い出になりました。

fort
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そしてパリ。寒いです。また現実に戻って、明日から頑張ります。今年のクリスマスにまたおいしいものを食べながら頑張ったなあと振り返られるよう に。